えとうのひとりごと

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美しい人に・・・
2010年10月6日(水)

 暑い夏がようやく背中を向けて、肩ごしに手をフリながら去って行った。

 夏の終わりのある日、名古屋のホテルの横を歩いていると、僕の前にポタッと何かが落ちた。この歴史的な暑さの中で生き抜いたアブラゼミ。

 彼らはきっと昔と変わらない生活をしているのに、大きく変わったのは環境のほうで、都会に住むセミたちにとって、安らかな大地に落ちるのは簡単なことではない。

 そのセミも、最後にはコンクリートの上に悲しく落ちたのだから・・・・。

 この哀れな夏の戦士を駐車場の横にある、自然と呼ぶには申し訳ないような植え込みに僕は運んだ。アメリカのネイティブ・ピープルは大地の上で死にたいと願う。いつか、人も大地の上で死ぬことが、かなわない時代にならないことを祈りながら。

 現代の文明は、誰かが、どこかで考えたイメージの世界であり、その中で私たちは生きています。多くのビル群も、アスファルトの道も、電車も、クルマも、飛行機も。
 見わたす限り都会というのは、自然のほかはすべて人工物であり、その中で私たちは暮らしています。都市は人のイメージの産物なのです。

 ドイツの哲学者フォイエルバッハは「この世界とは精神が外面化したもの」と言いました。

 たしかに、大昔の人々は自然に抱かれて暮らしていたのに対して、都市では、誰かのイメージの中で作られたさまざまなモノの中に、埋没して私たちは暮らしているのです。

 養老孟司さんは「唯脳論」の中で、「脳」の作った社会の中で暮らすことを「脳化社会」と呼びました。私たちは自然から離れた中で、暮らしていると、やがて身体が不適応を起こしてもおかしくありません。

 直線で区切られ、計算しつくされた都会。人為的に配置された植物と地面。その中で自然の感覚をすこし麻痺させながら生きて行くことが、都会で生きるということなのかもしれません。

 それと対比して、自然とは、不規則さと、多種多様性。

 人工的な機械音に比べ、その都会の中でも、ふと聞こえる虫の声。悠久の時から変わらずに流れる懐かしいサウンド。月と雲との協演。風のリズム。星のまたたき。穏やかな川面の流れ。雨音のしらべ。 小鳥のさえずり。心理学の後編コースで習得する1/ f ゆらぎのリズムです。
 人の心を落ち着かせる、「しゃべり方」や「呼吸」も、すべてはロウソクのゆれる灯りのように不規則に揺らいでいます。

 これから秋になり、私たちの目を和ませる、落ち葉の多様な「形」と「色」。大きいものから、小さなものにいたるまで・・・・多種多様で美しい。

 最近、僕のブログでも書いたのだけれど、「盲目の人々」の作者、写真家のソフィ・カルは、生まれた時から目の見えない人に「あなたにとって美とは何ですか」とたずねたところ、彼は「美とは、わたしの10歳になる子供のことだ」と言う。「でも、あなたは何も見えないですよね」と質問すると「子供を抱きしめた時の感触や匂いで感じるのです。美しさを」と答えたという。美は見た目ではないということなのだろうか?

 日本画家の千住 博さんは、美とは、生きていくことの喜びや、感性のことであり、美的感動とは「生きていて良かった」という本能的なものだという。
 雪山で昇る朝日を美しいと思うのも、生きるために咲いている花の姿を美しいと思うのも、その何かに出会えたことへの感動がそうさせるのかもしれません。女性を美しいと思うのは、自分がこの女性に出会えて心から良かったと感じるからなのだというのです。

 最近は、女性はキレイな人が増えたと思います。でも、気持ちを「ほっこり」させる人は少ないかもしれません。「ホッ」とも「ほっこり」も説明できない感覚なのです。美と同じで、説明も解説もできない本能的な感覚。

 悲しい映画を見ていて、ふと横で涙をぬぐっている瞬間のしぐさや、誰かが救われた姿を見て、一緒に安どしている表情など、この人といれば、どんな時でも、安心していられると思える人は、共感能力の持ち主だと思います。

 笑わない、泣かない、あまり表情を動かさないロボットのような美しさを持った人も多いのです。ただ、カウンセラーとしてたくさんの人と出会っていると、そういう人は恋愛が長続きしないような気がする。誰しも最初は、美しさに惹かれて、近寄ってくるのだけど、造花のようで、写真家カルが質問した男性のように「子供を抱きしめた時の生きるエネルギー」を感じないのです。

 なにより「恋愛」と違い「結婚」は、瞬発能力ではない。持続可能な能力が必要なのです。

 最近、雑誌やフリーペーパーの読み物を見ていると「婚活ブーム」が続いているようです。

 そのための美顔、痩身、ファッションから小物までと多くの女性の気持ちをこれでもかと刺激しています。ただ、婚活には成功しても、そこはただの入口だと思うのです。

 もちろん、「パッケージだけよく見せて買わせれば勝ち」と思う人もいるのでしょう。ただ、心理カウンセラーから言わせてもらえれば、結婚は、楽しくデートできればいいというノリのものではありません。失敗すれば買いかえればいい家電ではないのです。

 買い物と結婚を比較するのはよくはないですが、買い物でいうなら、人生で一番に高い買い物になり、その後の人生まで大きく影響します。

 その証拠に、離婚は、両者に経済的にも、心理的にも、いや周囲の人々にも強いダメージを与えるものです。

 だからこそ、見た目ではない、持続的な人間関係を保てる、継続可能な能力の向上が求められます。それは共感力と、コミュニケーション能力を高めることが何より大切なのです。

 これは女性だけではなく、男性もそうです。
 ふと疲れた時に、何も言わずに肩を叩いて微笑むやさしさ。つまづきそうな時に、無意識に手をさしのべる気づかい。ユーモアも必要だけれども、場の雰囲気をこわすと思うと話題を変える判断力と気転。ですから、自分の好きなことばかりをしゃべり過ぎる男性は、KY(空気が読めない)と嫌われます。

 見た目に誤魔化されない能力の開発が互いに必要なのです。

 都会の中で、女性も男性も、脳化されて、直線的で、画一的な時代だからこそ、動物のように本能を刺激する存在になりたい。なんとも自然に抱かれたような安心感を与える人に。

 「たそがれ清兵衛」や「武士の一分」の監督の山田洋次さんは「むかしは『幸せ』と言う言葉はなかった。それに変わる言葉は『安心』であった」と言っています。美しさとは、その人に出会えたことの喜びと、安心感なのではないか。

 クジャクの羽はとても美しい。その美しい羽を広げて、自分はこんなに健康だから安心して、自分といたほうが将来、幸せになれるよというアピールだそうです。その求愛行動で、扇形に美しい羽を広げるのです。

 やはり美は安心感なのかもしれません。

 デビューしたての時は何とも思わなかったアイドルに、誰かが書いた脚本のステキな役どころをくり返しテレビを見たりしているうちに、その役者の人間性を無視して、多くの人がファンになる。これも安心の心理です。だから、芸能人同士の結婚は続かないケースが多い。フィクションで始まり、リアルな人間性を知って別れるのでしょう。幻想(イリュージョン)が幻滅(デスイリュージョン)になるのです。

 話はそれましたが、見た目ではなく、素地を鍛えなくてはならないのが人の魅力なのでしょう。

 だから、ホッとする自然は美しい。

 もっと自然を感じさせるような人になりたい。

 そよ風のように揺れる瞳と、陽だまりのような笑顔と、山に映る光のように色とりどりにかわる表情を持ちたいものです。心は、月のように優しくほのかに悲しみを照らし、時には波のように心のボートを揺らして心地よい刺激を与える。

 だから宮沢賢治をまねて、

        僕は、「そういう人に私はなりたい」


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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