1999年をいかに生きるか | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■1999年をいかに生きるか
1999年2月23日
 西暦1999年・・・小学生のころに刻印された、この年数。三十年ちかくいつも心の片隅に黒くて重い存在として、ドッカと居座っていた。そうノストラダムスの大予言です。
 人類滅亡のこの四文字。

 あの子供のころ考えていた人類滅亡のイメージは、街の発展とともに公害がクローズアップされていた時代も手伝って,光化学のスモッグによっていつも曇った空。食料は底をつき、そのために国際緊張は高まり、毎日のようにテレビでは戦争による緊迫感で、マンガも放送できない状態というのが、1999年のイメージという感じだったでしょうか。

 ところが現実には、テレビでは子供たちの大好きなアニメは毎日やっているし、食卓に食料が底をついたという深刻な状態にはなっていない。失業率が増えている。不景気だと言っても、日本は栄誉栄華をむさぼり世界の貧困など、どこ吹く風でノー天気に、この世の春を満喫している。
 だから安心しましょうよ。と言いたいわけではないのです。祭りばやしの裏側では、にぎやか過ぎて、何が起こっていても逆に気づかないことがあるかもしれないという不安を感じるのです。

 世界の栄華を誇った多くの文明が、突然何の予告もなく滅んだように、文明の滅亡は華やいだ日々の生活の中に崩壊のプロローグが準備されているからです。
 私が子供時代に想像していた目に見えるかたちの滅亡なら、人類は目を覚まし真剣に危機的な問題を考え直すことができます。しかし、問題なのは人間は危機的な状態のときには最高の選択より、むしろ愚かな選択をしてしまいかねない。そこのところに最大の危機感を感じます。
 一番恐ろしいのは、人間を人間たらしめている、自分を反省できる自己反省機能が危機的なときには機能しなくなるところにあるのです。
 人々の精神が少しずつ少しずつ自覚できないほどに亀裂が入っていたら。人類にとって最大の危機なのです。すべてが正常な時代にはおかしな人は目立ちますが、全体が異常になれば個人の異常は正常に見えます。全人類が狂いだせば、狂気は常識といわれるのです。

 精神科医の町沢博士は、最近では精神病院の中で超現実妄想は少なくなっていると発表しています。超現実妄想とは、だれが見てもあの人は異常だというような言動をつねにしている人のことです。昔はどこの精神病院にも「私は天皇陛下だ」と言う人が一人は必ずいました。
 分裂病で有名な「世界没落感」が数多くありました。世界没落感というのは自分だけが世界から落ちていくという分裂です。これも減っています。
 このような分裂病が増えてくるのは、世界がまとまっていて、社会の秩序が安定している時代です。その安定した世間から自分だけが滑り落ちてゆく恐怖が投影されて、この分裂は起こるのですから。
 しかし、今の社会のように人間関係が希薄になり、政治は乱れ、家庭が崩壊し、歪んだ欲望や無秩序な犯罪が頻発すると、「社会の中でとり残されている感覚」は誰にでもありそうな気がします。この不安定な感覚こそ現代人の特徴です。だから、多かれ少なかれ現代人は半病人なのかもしれません。

 個人の異常さよりも、社会システムの混乱と集団の異常さが、どこからが異常で、どこからが正常なのかを不明確にしています。

 ほんの数日前、「少年法の見直し反対」のビラを淀屋橋の駅の周辺で大阪弁護士会の弁護士のかたがたが配っていました。賛否は別にして、最近は若年者の犯罪が増えています。そして犯罪に走る子供たちの集団も変わってきています。
 昔は非行少年といえば、恵まれぬ家庭環境の子供が大多数をしめていましたが、最近は両親には恵まれ、家庭環境も社会的に問題なく、日々は普通ぽい子供が犯罪を引き起こすケースが多いのです。
 普通の子供と非行する子供の境界がなくなってきています。今話題になっているストーカー犯罪者もストーカーの追跡行動は妄想的で、相手への共感能力に欠け、相手や相手の家族に多大な迷惑をかけるという意味で反社会的で病的ですが、私生活ではけっして異常ではなく、むしろ人の良い常識人と世間では見られている人が多いという報告があります。

 立花 隆氏は「社会全体で正常と異常の間のカベがとりはらわれつつある」と警告しています。
 同じことが、「ヤクザ」と「カタギ」、「水商売の女性」と「援助交際するコギャルやOL」、「宗教者」と「狂信的な犯罪者」などなど数えあげればきりがありません。

 精神医学の世界でも,ボーダーラインといわれている境界線人格障害(正常か異常かの判定をしにくい精神障害)は、アメリカを中心に日本などの先進国でしだいに増加しているのです。

 人類は全体で狂ってゆくのでしょうか。以前出版の編集者の紹介で地球村の代表の高木 善之さんとお会いしたとき、「衛藤さん、僕はね。この社会は駄目かもしれないと思っているんです。ー中略ー でもね、ダメという結果は解っていても、自分は役割をはたして走りたい」という趣旨のことをお話しになられました。私も同感だという気持ちがわいたのを覚えています。

 今年になってよく「人類はどうなるんでしょうね?」とたずねられる。「さあ。どうなるんでしょうね・・・」わからないんです、正直なところ。
 ただね、ひとつ解っていることがあります。それは、そのおかしさに気づいたり、考えたり、変わり始めている人は確実に増えているということです。神様は滅ぼそうという人々に気づきは与えないということです。どうせ滅ぼすならば愚かさに突進させればよいのですから。にもかかわらず、私立ちの周りには変化する人達もいるというまぎれもない事実です。そこに希望があります。
今年の年賀状に
 「最近、相手の立場になれるようになりました。」
 「田舎に久しぶりに子供を連れて帰ったら、母が『おまえ子供の話を良く聴き、子供を
 感情的にしからなくなったね』と言われて、これも心理学ゼミの効果です。」
 「自分自身を好きになりました。そして周囲の人の良いところが見えてきました。」

 などなど全国からたくさんのお手紙が送られてきました。講座の発信手が未熟な私でも、こんなに多くの気づきをされる人々がいるんだなぁ。お正月から感謝・感激・感動の連続でした。
 講演時にも「この講演に来た人の中から、他人に対して対立しないで、相手の良いところをみるように変わってくれるかなぁ」と思いながら話しています。私が自分の仕事にやりがいを感じる瞬間です。そして、私たちの協会を支えてくれる人々は皆同じ心です。他の講師が「自分の仕事にやりがいを感じる」「先生と出会えて良かった」と言ってくれるとき、私はこう言うようにしています。「自分の好きな仕事に出会える人はそんなにたくさんいるわけじゃない。だから僕たちは「天の宝」を今使っている。逆に日々苦労している人は「天の宝」を蓄えている。これは僕たちにとって『怖いことや』だから、そのぶん手を抜かないでクライエントや講座に来られる生徒さんに一生懸命に愛を伝えていこう。だから、講座に入る前、カウンセリングに入る前、自分の神様(宗教は何でもよい)に祈りなさい。縁があってこの仕事をさせてもらっているのだから感謝して『自分のカウンセラーとしての役割をはたせさせてください。そして、今日の出会いによって相手を幸せにできますように』と自分の頑張り以上の能力は神様におまかせしなさい」と。それに応えて多くのスタッフが日夜頑張ってくれています。うれしいかぎりです。

 何が正義で、何が正しいことかは、私にはわからないけれど。人類のために役立つことも解らないけれど。きっと確かなことは、この心理学ゼミを広めてゆくこと。その中から人々を前向きにしていくこと。これだけは、いまの自分たちにやれること。そしてそれは笑顔を増やし、自分自身や周囲を肯定していくこと。
 そう、マズローのいう「弱点をさらけ出しても、怖さのない安心できる関係が、真の人間関係だ」というやさしい社会を目指して、恐れるよりやれることで今年は走るしかないと思っています。

背景画像を含めた印刷方法について