癒しの時代の裏側 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■癒しの時代の裏側
1999年12月26日
 癒しの時代と云われています。そんな時代に、人は心の拠りどころに神様を求めます。全知全能の存在を見たがる。個人的には、神様は見ることなどできないと思っている。神の存在というものは自然の中や、人のやさしい心の中に、その片りんを感じることはあるでしょう。でも、その存在のすべてを確かめることなどできない。すべてを知る必要など本来ないのかもしれない。

 モノの根源を見ようとして物質を細かく刻んできた物理学が、ハイゼンベルクの不確定性原理が「モノの本質をズバリ見ることはできない。すべては近似値でしかない」という理論のように。すべての真実は人間には隠されている。

 きっと「精神世界」で真実はこうだ。ニワカ覚醒者が「あの世はこうだ」とそれらしく語っても、神の意図する世界観のそばまでは近づけても、そのもの全体を見ることは許されていない。また、あわてて知る必要がないと思っている。インディアンの死生観のように、この世を去るときが来れば、神は次の世界を準備されておられるのだから、あれこれ考える必要はない。その時がくれば必然的にすべてが理解できるのだ。

 神様の存在も死後の世界もそれぞれの意見はあって良いと思う。でもそれらは本当のことの近似値であり、一部分で、一側面でしかないということをわきまえておかないといけない。それを認めないで、それぞれの神様の見方に執着することで対立が生まれ、戦争も始まるのだ。

 それに人間ごときに(失言)、その存在すべてを理解される程度の神様であってはいけないと個人的には思っている。しかしながら神様を求める人々と、神様になりたがる人が、この世には多いようです。この両者が出会うことによって新しい宗教が誕生するのです。
 
 昔は「地獄の沙汰も金しだい」と云われましたが、現代は「癒しの効果も金しだい」という時代なのです。

 子供の時は不思議に思っていました。「どうして神様は、お金をほしがるのだろう?それも、この世界のすべてを創造した存在である神さまなのに、人間の世界に流通するお金をなぜ求めているのか?」と。大人になって分かったことは。それはそれらを求めているのは神ではなく。ただの人間なのだということ。

 資金集めや、組織を維持することに、教祖が無我夢中になるのは、自分一人だけでは、何事もできないからです。それらの人々はたくさんの人を従えることで、自分の権威や影響力の大きさを、人に見せつけ人々を信じ込ませたいからです。信じてもらえないと彼らは、ただの人に成り下がってしまうからです。ですから彼らは組織というものに頼ているのです。 組織を失って“ただの人”になりたくない彼らは、際限なくこの世の影響力である、お金に執着するのです。

 全知全能というのは、人間の能力をはるかに超えていることです。それはすでに超人であるわけです。ウルトラマンやスーパーマンを考えてください。彼らは怪獣や敵と戦い終わると、すぐさまそこを飛び去ります。それは彼らが本当に超人だからです。彼らはいついかなるところでも超人的パワーを発揮できるからです。だから自分が行なった行為を、人に承認され権威を永久的に維持する必要がないからです。だから彼らは安心して、その場から消えるのです。「シュワッチ!」と。彼らには他人から認められたいという強い欲求がありません。それは彼らがいつでも最高の実力を出せるからなのです。だから本物の超人や英雄は立ち去るのです。西部劇のシェーンも任侠の世界の高倉健さんも、いつまでもそこに居座らない。彼らは英雄であり、旅人でもあるのです。

 旅人は風のように立ち止まらない。風は姿が見えないものです。そよ風のように人々の心に清涼感を残す時もあれば、嵐のように人々に多大な影響力だけを残して去って行くこともあります。まさに変化自在であり、そして風は、どこにでも存在しているものです。だから、この世界の秘密、真実の姿、神の存在は、どこにでもある事象の中に存在しているものなのかもしれません。神さまは、あそこにいる、ここにいるという存在ではないのです。風も水も流れていくものです。これが自然のあるべき姿です。止まると濁ってよどみます。

 人も組織も、長年の間に問題をはらんでゆきます。官僚も政治もそうです。神さまや正義のイメージも固定化するのは危険です。なぜなら、戦争は自国の正義に始まるからです。ナチスもオウムも自分たちの正義を疑ってかからないところに問題が起きるのです。正義の衣を着て他人を攻撃するほど、人は他人に対して残酷になります。

 組織に固執する、ただの人たちを神とあがめたり、悟りに到達した解脱した人と持上げることは危険なのです。ライフ・スペースの高橋代表を昔、「あんな素晴らしい人はいない。きっと神さまだわ」と語った人が、私の周りにもたくさんおられました。

 今でも、あそこに、ここにと、癒しの時代のブームにあおられて、ニワカ神さま参拝や、パワースポットめぐりは今も続いています。まるで神さまにも流行があるようにです。インドのサイババのアシュラムには、たくさんの日本人が生き神様に会いに出かけます。しかし、日本人同士が一緒にグループを組んで我先に自分達がサイババの部屋に呼んでもらおうと手を伸ばす。その中にはただサイババにお会いしたという、タレントに対するファン意識と変わりはしない心理が働いているのではないか?と疑問視してしまうのです。なぜなら、貧しい国から自分の子供の病気を癒してもらおうと全財産を投げ出して、インドに来ている人もいるわけです。ホントに癒しの心を持ってサイババに会いに来ているのなら、自分たちは日本人だから、インドにはいつでも来れる。「あなた達のようなせっぱ詰まった人達が前に行きなさい」と言うのが癒しを求める人の態度であるのではないでしょうか。ブームで集まり、揺れる癒しの時代。
 
 神さまが、昔流行した紅茶キノコ(知らない人は御免なさい)のような健康食品ブームと同じにならなけければよいのですが。

 講演をしていたり、本を執筆していると。なかには勘違いされて、こちらを神格化して見られることがあります。危険なことです。その相手にも自分にも。他人から、すごい人、すごい存在と言われはじめると、自分は「すごいのかな〜ぁ」と勘違いする人も多いのです。多くの人格者が、このワナにはまるのです。人のよい普通の人間が神化していくプロセスの始まりは、ここに分岐点があります。

 スターウォーズの「ホース」のパワーは、ジェダイの騎士にもダースベイダーになる悪の誘惑をも持つているのです。これも同じですね。

 これは単純に、安易な癒しを求めて、神さまを求めようとする側にも責任はあるのです。このように神を求めようとする人々のパワーは集団妄想をもたらします。ヒットラーですらある時期までは、人に好感を持たれていた人物だそうです。 最初から気が狂った人に、ゲーテ文学を生み出したドイツ国民が扇動されるわけがありません。

 自分などは、人格者ではないから「ぜんぜんすごくなんかない」ということを自覚しているつもりです。カウンセラーとして収入を得ているのですから。
 世俗中の世俗。凡人中の凡人なのです。 人助けをビジネスにするなんて、考え方によると凡人以下かもしれないのです。 残念ですけどネ。
 ですから、仏陀やイエスのように金銭を求めていない人、組織を求めない人が真実の救世主の条件なのかもしれません。
 仏陀は王子として生まれながらこの世の無常を思いつづけ金銭欲を戒め、権力を嫌った。イエスも金持ちが天国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが簡単だ。と金銭に執着することの愚かさを説いている。それが救世主のあるべき姿です。

 だから、自分はちっともすごくなんかない。人助けで商売をしているいかがわしい自分の中にもある、わずかな良心がそれを警告しているのです。でも、金銭を信者から求めながら自分は神だ解脱者だと、うそぶく詐欺しには呆れてしまう。さらに悲しいのはそれらを信じる人がいることです。

 もし、あなたが何かに救われたなら、それは気づくべき時期に来ていたのです。水が百℃近くにならないと沸騰石を入れても沸騰はしませんが、百℃を超えるとチヨットした刺激で沸騰します。それはゴミのようなものでもよいのです。

 心の世界もそれと同じなのです。心が何かのきっかけで変わることがあります。それが人との出会いかもしれないし、本を読むことかもしれない。あるいは、自己啓発セミナーみたいなものかもしれない。でも、その刺激を与えた側が素晴らしいわけではありません。心がプラスに変化した人の側が素晴らしいのです。それを示してくれた刺激との出会いに感謝することは大切なことですが、それらの存在に完全無欠を期待したり、神を求めるのはムリなことだと思うのです。

 なぜなら、相手も生身の身体を持った、普通の人なのだから。
神を求められれば人は錯覚もし、認められる喜びを味わえば、ムリをしてでも神格化するのでしょう。とくに幼い時から何らかしらの劣等感を持つていれば、その欲求は計り知れません。やがてたくさんの取り巻きに合わせて、自分を神格化する自己錯覚の暗示が入ると。普通の人ほど人格変容していくことになるのです。政治家、医者や運動家などは集団に対する影響力を持つので宗教家と同じ、この危険性をはらんでいるのです。人から注目を集める人間には強靭な自己批判能力が必要になるのでしょう。

 神を安易に求める人たちと、それに自己暗示が加わってメシヤになりたがる人とが出会うことで、カルト集団のマインドコントロールの愚かさがまた始まることになるのです。かくして救世主が、またひとつ生まれ組織を拡大するための重々しい儀式と、それらしい集金システムが完成するのです。

 神を見ようとする人と、神になろうとする人は、互いに危険集団を生みだす共犯者なのかもしれません。カルト集団のマインドコントロールの恐怖を騒ぐ前に、われわれの中にある他力本願的な、依存の精神を反省すべきなのかもしれません。21世紀は、自分自身に価値を見いだすことが大切なのです。
 自分が気づいた能力に喜び、それを尊敬すべき時代なのです。

 これからの「癒しの時代」にこそ冷静な自己観察能力と自力的なみずからの成長が必要なのです。

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