老人の瞳の中に・・・ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■老人の瞳の中に・・・
2000年4月11日
 この週末、家族でぶらぶら街に出かけました。小さな子供を連れて雑踏の中を歩くのは、これが結構大変なのです。 目線を下に意識して歩く。
 なぜなら、大勢の人ごみの中では、小さな子供たちは死角になって、道行く人が何気なく持っているカバンに当たりそうになつたり、目的だけをめざして足早に歩いている人に危うく、ぶつかりそうになるのを気にかけていなければいけないからです。
 そうやって意識して目線を落として歩いていたせいか、お年寄りの人にも、目がいきました。 老いた人も、すれ違う人々に遠慮しながら、一生懸命歩いている。 あわただしいスピードにタイミングを合わせるのが大変そうなのだ。 とても淋しい風景だった。

 インディアンの世界では、一番大切にあつかわれるのは、老人と子供たちなのだそうだ。 老人は今までの歴史そのもの。 過去の中での知恵袋ですし。
 そして、子供たちは、我々の世界を未来につなげる可能性のたくさん詰まった宝物なのです。 ですから、インディアンの食卓では老人と子供が、食事の時には一番よい席にすわり、一番おいしいものを食べるのです。 
そして、彼らインディアンの中では、今を生きる若い人々は、過去と未来を援助するためのサポーターです。 インディアンの世界ではバリバリ働ける世代は、老人(過去)と子供(未来)をつなぐ奉仕者なのです。
ずっと永く存続する文明は老人と子供をとても大事にします。中国では尊敬する先生のことを老師と呼ぶのはそのせいです。 過去の知恵や歴史を大切にする社会は骨組みが、しっかりしていて滅亡することはありません。

 でも、私たち日本人という部族である老人たちは、どうでしょう?

 今の街中やアミューズメント・パークは若い世代のために造られています。
私たち日本部族が大切するのは、物とお金のようです。知恵や夢ではありません。ですから、生産力の落ちた、お年寄りは邪魔者になるのです。子供たちは未来の労働戦士になるための訓練を早期から始めなくてはなりません。 
我々日本というインディアン部族は、未来などどうでもいいのです。過去の知恵より科学文明が大切なのです。 そう、未来や過去より、今のこの瞬間だけがなにより大切なのです。 今さえ良ければいいのです。 
まさに刹那的な生き方です。  そのような文明はすぐに滅びるとインディアンの人々は警告しています。

 昔読んだ本に七十代のスキーヤーがいて、日本でスキーをすると必ず聞かれるそうです。「お幾つですか? へー。 すごいなぁー。」と目を丸くされる。それは、スキー場で、自分たちの常識の範中に入らない老齢のスキーヤーを見る奇異な目。 特別なスキーヤー見る目だそうです。 もちろん悪気があって質問されるわけではないことは知っていても、あまり多くの人にたずねられると良い気はしないそうです。ヨーロッパでスキーをしても、そのようの質問はうけることがない。なぜなら幾つになっても多くのスキーヤーが、自分のペースーでスキーを楽しんでいるからです。 ですから日本でスキーをするとストレスがたまるというのです。

 日本という部族で生きていると「喜びの期間」は短命です。 「若さ」という狭い範囲の期間だけが。 素晴らしいのだという焦りがあります。 ですから、子供たちは、夢の世界を早くから捨てさり、現実的なことのみに価値を置くのです。
中年、老年期の人たちは若作りにエネルギーを費やします。あれだけ女性の雑誌に「エステ」だの「美顔」だのという記事が、ところ狭しと載っているのはそのせいなのでしょう。 もちろん若い人の美しさを否定するわけではないのですが。
しかし、年を重ねた人の美しさも見いださなければとも思うのです。 人生の喜びや経験を刻んできたシワ。 英知を宿した瞳の中にも「美しさ」はあるのです。  
 
「美しい40代、50代が増えると日本は変わると思う」ある化粧品メーカのコピーです。 

 私は見た目の美しさや外見の美しさだけを競っている社会は薄ぺらな社会だと思っています。「外見のエステ」と同時に「人格のエステ」への努力も同じくらいにウエイトをおかなければいけないのです。 外見の美しさだけに、誇りを持っていた人の年齢を重ねる“老いの体験”は悲しいほどの喪失感です。

 そのような人たちの老いることへの悩みの多くは、その人たちが「老い」に対するイメージが、とてもよろしくない。とても「悪い」のです。

 足腰が不自由になる。目がかすむ。 誰にも相手にされない。歯が悪くなるので食事を楽しめない。 邪魔者扱いされる。 動きが鈍い。 誰からも愛されない。のように「マイナス」なイメージばかりです。

 でも、美しく老いる人は、老いることのイメージが、とても「良い」のです。

 出世や競争という世界から開放される。 時間がタップリあるので、ゆっくり自然を眺められる。 人の目を気にした若い時と違い、人の評価を意識しない、自分らしいライフスタイルが楽しめる。 異性という意識で曇らされていた男女の間で本当の友情が持ちやすい。 自分が生きてきた人生経験から広い視野に立ってものごとが見えてくる。 たくさんの出会いの結果である行く末(職場で指導し出会った人たち。子孫たち。社会の発展)が観える。
このように「プラス」のイメージなのです

 ですから、視点を変えると、老いることもまんざら悪くないのです。

 それに年を経ないと見えないものがあります。

 小学校のとき修学旅行で京都に行きました。でも、その時、古都京都に行っては居たのですが、観てはいない。
その頃の関心は友達のことや、好きな女の子のこと。 どのバスに乗るのか、誰が自分の隣に座るか。 好きな女の子は自由行動の時に何をするのかな? そうなのです古都京都を観てない。 まさに アウト オブ 眼中なのでした。
でも、いま三十代半ばを過ぎて観る。京都はまさに「よろしおすなぁ」なのです。美しいのです。 これが、60代,70代,その先には、もっと違った古都京都に出会えるはずです。 自然を観るには、それを観る“心の余裕”がいるようですネ。

 桜を観るのも、年齢がいるのかもしれません。お花見も、新人の社員が朝一番に桜の下にシートを張って場所とりをするので、お年寄りが、お花見ができないと嘆いていました。 「どけどけ どきやがれ! 老人たち一行の、お通りだい。桜の下でカラオケなんて十年はやい。 風情なく酒を飲むんじゃねえ。 桜と会話できない奴らは来るんじゃない。子供は帰りな」と説教できるお年寄りたちの復活を期待しています。

 「若い世代に迷惑をかけない老い方」という本を見て目を疑いました。若い世代の我々戦士は、老人や子供を守るためにあるのだという社会は安心できる社会なのです。 そうではないですか。

 何はともかく老人が若者に気をつかいながら,街を歩かなくてはいけない時代は、なにかおかしいのです。なぜなら、あの老人たちの淋しそうな瞳は、やがては、私たちの瞳の景色になるのですから。

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