永い眠りから目覚めて、流れる雲を眺めながら考えたこと。 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■永い眠りから目覚めて、流れる雲を眺めながら考えたこと。
2000年8月6日
 人間と書いて、人の間。 人は人との関わりによって考え鍛えられ、そして成長するとは、よく語られることです。でも、人は人の間だけで成長するわけではありません。空を見ても、小犬を見ても、本からでも刺激を受け学ぶべき機会が、この星にはたくさんあります。

 人はモノではありません。モノは、そのままにして置くと時間の中で朽ちてゆきます。でも、人間という命は、魚や肉や野菜を食べて、それをヒトの細胞にしてゆきます。バラバラのものを食べていても、シッカリと人間のカラダに変えてゆくのです。それは、まさに「手品」か「奇跡」です。
野菜をズーッと食べていたら、人間が野菜に変わった。という話は聞いたこともありません。ペットの犬はドッグフードしか食べていないのに、長年の間に「ドッグフード犬」になることはないのです。

 生命はつねに何かを「取り入れ」、「自分」にしてゆきます。
生命はつねに「地球」の中から恩恵をもらって生きているのです。この「取り入れ」の行動を止めた時に、生命に「死」が訪れます。たとえば、呼吸を取り入れることをやめると「この人、息してない。しし・・死んでる」となるのですそして、やがて「肉体」は自然の法則に乗っ取って朽ちてゆくのです。

 すべての物質である「モノ」は形あるものから、時間の流れと共に崩れ朽ちてゆきます。建物も家具も少しずつですが崩れてゆくのです。 熱湯も外の空気へと熱のエネルギーを分散させて、どんどん冷めてゆきます。秩序あるものから無秩序へ、これが宇宙の法則です。これが逆になることはありません。これを「エントロピーの増大の法則」と呼びます。

 「命あるもの」は、この法則に逆らいます。時間と共に水、空気、食物など「バラバラ」なものを、外から「取り入れ」、細胞という「秩序」に変化させ、その細胞が集まり手や足をつくり。そしてそれらを統一して「人体」に構築してゆくのです。その人間が、さらに社会を作ってゆくのです。
 ですから、生きるとは、何かを「取り入れ」「秩序を作り」。そして「外に影響してゆく」のです。 すべての生命は「外の環境」を自分に取り入れ、ただ一つの生命として「孤立」して存在してはいないのです。

 「生きている」ということは、一瞬、一瞬も環境と自分を相互に循環させ「開放系」として存在されているのです。「外との交流を止めた時」に、人は「死」に「モノ」になります。モノとは、ただそこに存在し「閉鎖」され孤立しているのです。

 ですから「人間」を実験室に連れて来て、くまなく調べても「モノ」としての「形」は理解できますが、これでは「生きているロウ人形」と同じです。

 「人」は外との交流があって、そこで、その人らしさである「感情」が生まれるのです。人は外の刺激に対して動き感じて反応するのです。これが「感動」動物である人間です。嫌なことから逃げる。これは当然に理論的に理解できる行動です。でも、人は誰かの為に、愛の為に、火中に飛び込むことさえあるのです。人は「理論」や「理屈」では分析できない存在です。理屈ばかり言う、上司や親のもとでは、人は感動して従わないのは、そのせいです。  そもそも「理動」と言う漢字はないのです。

 人は、それら周囲で起きている出来事に対して、心のフィルターを通して「笑う」のか「怒る」のか「泣く」のかを選びます。その選択の仕方が、その「人らしさ」になります。
 「人生とは」その瞬間、瞬間に選び取る感情や行動の集合体なのです。これを実存主義と呼びます。
 「人生とは」を、たずねても不可能です。 生きる意味を人生に求めるのは間違いです。なぜなら、人生が、今この瞬間、瞬間にも、あなたに「感情の選択」をたずねているのです。あなたは目の前の人に対して、出来事に対して、どのような感情を選択するのかを、人生が私達に問いかけているのです。そうこの一瞬、一瞬に。人生が私達の行動を、いつも見つめています。

 私達は、嫌いな相手を否定する心を「憎しみ」と呼び、嫌いな相手を受け入れようとする心の作用を「愛」と呼ぶのです。それらの感情の選択は私達に任されているのです。好きな人を受け入れることは、誰もがやっています。それは「愛」とは呼べないのかもしれません。

 ですから、戦いと分裂、対立と中傷合戦を繰り返す人は「愛」の人ではないのです。自分を裏切った人を受け入れる努力を、はじめた時に人生は愛に包まれはじめるのでしょう。他人と対立をして、「愛がほしい」と言う人は、自分が愛してこなかったことに気がつく必要があるのです。「自分の姿勢」そのものが結局のところ人生そのものを作り、その世界の関係性を取り入れながら、生きているのが人間だということです。

 まさに「他人の姿勢」と「過去の出来事」は変えられないのです。変えられるのは「自分の生き方」と「未来への挑戦」なのです。

 人は「離合集散」の火花の中で生きています。憎みたい人から絡まれ、愛したい人から疎ましがられる。それでも人とのかかわりがなくては淋しくて生きられない。だからこそ否定したい相手を許そうとする心が生まれる。

 これを書いている自室の窓から見える空も確実に刻々と動いています。たしかに地球もそこに生きとし、生きるものには動いて生きている。すべてのものが、壮大な宇宙の中で活動しながら生きているのです。そして僕達も、その限られた寿命という時間の中で生きています。大きな大きな動きの中で、一生懸命に「生きる」ことに僕達は参加しているのです。そう「参加することに意義がある」参加しているからプレイヤーなのです。

 ですから、人との「ふれあい」を遮断することは、 人間が「モノ化」することです。影響を受けて感じることも、また、そこに生きていたという証明を誰かの心に優しく深く残すことも出来ないからです。 なぜならモノには動きがないからです。モノになると環境に影響を与えません。ですから「モノ化人間」は「環境の法則」(エントロピー)に従って、あとは朽ちてゆくだけです。

 人との関係を断ってしまった若者がいるのなら、それは年齢だけが若いのであって「モノ化人間」で、後は朽ちるのを待っているのです。年齢を重ねられた、お年寄りでも「人や環境」に影響を与えている人は「命」としての動きがそこにあります。

 物理学で「熱」とは電子の動きです。電子レンジは、この分子を激しく動かすことで、熱を持たせるのです。活動は「熱」なのです。「燃える何かが欲しい」と望みながら、「燃えさせてくれる何かの出来事」を待っている人は、 永遠に燃える人生には出会えません。

 燃えたければ、すべての事をバカにしないで、「やってみる」「行動」すなわち「生きることに参加する」ことです。
「何かを夢中でやっている人をバカにしない」「自分に影響を与えた人や地球に感謝すること」です。
未来に向かって夢中になれないで、過去や他人を批判ばかりしている人は、動いていない「モノ化人間」だからです。命は「熱」です。それは「行動」です。「あいつは、熱い存在だね」と言われている人は行動的です。 「あいつは冷めている」と言われるのは批評家です。

 燃えるものが欲しければ、人をあれこれ批判しないことです。踊る阿呆に、見る阿呆、同じアホなら踊らにゃそん損。
「人生は祭りだよ」と僕の尊敬した人は言いました。ならば、プレイヤーになるか、アナリスト(分析家)になるかは心がけしだいです。

 ですから、生きると言うことは、環境に影響を与えることです。人として、生きるということは、他人に好影響を与えることです。「発する言葉」、「人に向ける笑顔」は僕達が、この世界に送り出す、自分の生きた証明なのです。

 あなたは今日なにを、この世界に贈りましたか? 世界は人の贈り物によって豊かになりますよね。 あなたは、この世界を浄化する人間というフィルターです。多くの人が吐き出す怒り、憎しみ、キツイ言葉を、あなたのフィルターを通り過ぎる時には、優しい言葉へ、そして自分から素適な笑顔に変えていきましょうよ。
長い眠りから覚めて窓を見ながら思ったことでした。
                         人には休息が、必要ですよね。

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