大人へのパスポート | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■大人へのパスポート
2000年9月30日
 昨今いろいろな事件をマスコミがとり上げるたびに教育の問題が話題になります。その教育現場の中で、カウンセラーという役割を持ちながら考えることは、現代は子供の教育あれこれを論じあう前に私達大人たちが姿勢を正し、良いモデルにならなければと思っています。皆さんは良い大人のモデルを想像できますか。素晴らしい大人とはどんなモデルなのでしょう。
「子供は親の背中を見て育つ」とよく言われます。これは言葉での教育は子供に対して影響力を与えることが少ないということです。子供達は親の「無言の行動」を見ています。
言葉は何とでも言えるのです。でも、行動は本気でなければできません。相手のことを心配していると言いながら、いざ相手が困っている時に援助の手を差し伸べなければ、口先だけだったのがわかります。「ウソをつく事は善くない」と子供に百万弁語っても、都合の悪い人からの電話に「お母さん、いま留守だと言いなさい」と子供にウソを強要すれば、それで子供はウソの必要性を学びます。
 笑い話に子供にいつも「人と比べては善くない」と言っている母親がいました。いつも60点平均の子供が80点とって喜んで母親に見せると、答案用紙を見ながら母親は、子どもに「良子ちゃんは何点だったの」とたずねる。「良子ちゃんは90点だった」と子供が正直に言うと「じゃあ80点、たいしたこと無い
じゃない」と落胆する。子供があわてて「でもね、隣のヨッチャンは70点だよ」と母親に告げると母はつかさず「人の点数はいいの、比べちゃダメ」と矛盾したことを言うのです。
 山本五十六が「言ってきかせ、やって見せ、誉めてやらねば、人は動かじ」と人を育てることのポイントを告げています。言うことも、誉めることも、言葉ですが、でも、「やって見せ」は行動です。これが一番難しいのです。
「モノの価値を教えなければ」と口では言いながら、消費に明け暮れ、すぐに買い与えてしまう親達。「人間は苦労や努力した量だけ実りが多い」と言いながら、子供にテレビゲームを与えておけば、おとなしく一人で遊んでいるからと、子供にふれあう努力や時間を避けて楽をする親達。

 神津カンナさんがテレビで、「私が大人になったと言う実感がわいたのは、一人暮らしをして、真新しい新聞を、私が最初に開いた時です」と言っていました。彼女がいくら読みたくても、神津家ではお父さんが新聞を最初に読むというルールがあったそうです。ここでこの話をとり上げたのは、なんと非合理的なのか。新聞くらい必要な時に必要な人が読めば良いじゃない。と言いたいわけではなありません。新聞を自分が最初に開いた時に「大人になったのだ。これからは自分で責任を持たなきゃいけない」と思わせる素晴らしさなのです。
 「子供に感動を」と言いながら、なんでも大人のやることを安易に経験させる。また、それが出来る裕福な時代に私達は生きているのです。我が家の子供たちも小さい時に海外旅行に一緒に連れて行きました。そして、日々、私たちと同じ料理を子供は食べています。それ自体が悪いのだと言いたいのではありません。ただ私が疑問と不安をいだくのは、子供の時代から大人のような経験や楽しみにならされた子供たちが「大人になることに楽しみがあるのか?」なのです。もちろん、子供に苦しみや、貧窮感を持たせたくはないのは、全世界の親の願いです。今考えなければならないのは「子供に、大人がどこまでストレスを取りのぞいてやることが良いのか」と言うことなのです。いや、それは「子供にストレスがかかる現実に、親がどれだけ一緒に耐え忍べるか?」という問題なのです。

 教育の最終目的は、自分で善悪を考えて、自分で責任を持って行動ができる大人を育て導くことなのです。その為には子供の時代に、人には経験し、通過しなければならない様々なストレスがあります。 現代の青少年の犯罪をよく見ていると、ストレスを幼少期に経験しなかった事例が多いのです。

 一つは、集団生活の中での、個人の居場所ということです。仲間との間で、怒ったり引き受けたりしなければならない「集団」と「個人」の絶妙なバランス感覚です。これらの調整は、動物の世界の方が優秀で巧妙です。動物界では“じゃれ合い”ながら攻撃本能の危険性と限界を学びます。今の人間の子供が育つ環境は、あまりにも親の監視の目が行き届き過ぎて、攻撃性の限界がわからず身につきません。
 子供は本能のまま生きているので自分の思い通りにならないと泣いたり、怒ってたたきに来たり、そのような攻撃をしてきます。これが欲求不満攻撃説といいます。子供は自分の欲求が満たされないと攻撃的になります。
 そのような攻撃的行為が、仲間に入れてもらえなかったり、年長の先輩から抑えられたりしながら、自分のポジションをコントロールするのです。
子供の“トラブル”を親が敏感に察知して止めに入り過ぎると、そこでトラブルの経験で学ぶ知恵は得られません。
 昔の家庭の親は生活に追われ、子供の数も多かったのです。今ほど目が子供に行き届きません。その中で子供達はじゃれ合いながら「攻撃力の調整」と「集団生活のバランス」を学ぶのです。幼児のケンカに刃物沙汰はありませんし、殺し合いもありません。青少年に成ってからの攻撃本能の暴発は、ナイフや殺し合いにまで発展します。ケンカの経験値が少ないので非常に危険なのです。
 「刃物でメッタ刺し」と言うのは犯罪心理から言っても、相手が怖いから必要以上に攻撃を仕向けるのです。今の事件の根底にあるのは恐怖です。バットや刃物を振り回すのは自分に自信がないから、相手が怖いからという心理からなのです。子供時代のじゃれ合い経験が乏しいことの表われです。
 小犬たちがじゃれ合い、噛み合っているのは、脇で見ていると結構、激しく真剣です。でも、親犬は静観しています。彼らには牙があるのでケガをすることもありますが、決して殺しあうことはありません。その中で、「攻撃性の限度」を学ぶのです。
 今の“人間の親”は部屋の中でも、公園でも、いつも子供達を監視しています。なにかトラブルがあると飛んできます。また、飛んでこないと「親は何をしているの」と批判を受けるからです。そして、「あんな子と遊んではいけません」と親が価値基準を押し付けます。でも、子供のほうはケンカしても、次の日にはケロッとしてお互いに遊んでいます。
 「この子はイジメられて損ばっかり」と言われる親の意見は、親の目線であって子供の基準とは違います。
 子供は成長する中でイジメられるのがイヤならば、自分でポジション争いをして自分らしい居場所を自力で獲得します。幼児期の順位が一生を左右することはありません。カウンセリングをしていて「3歳の頃にイジメにあってそれから私の人生は狂いました」という相談者には会ったことがありません。
 幼い時のイジメはイジメてやろうという意識は、イジメる側にもありません。子供の世界と親の世界は違います。子供が宝物にしているものは、親から見るとガラクタばかりに感じるのです。だから、子供が気にしていない小さなトラブルでも、親は根に持ってしますのです。 そして、「あなたがしっかりしないからよ」と親の価値観を押し付けます。

 子供時代は、ケンカしたり、自分の思う通りにならない経験を通して現実を知り。そしてフラストレーション・トレランス(欲求不満に耐える能力)を身に付けるのです。それの限界を感じると事態の打開のために子供は自分から努力をはじめます。その努力するスイッチのポイントは子供によって年齢はまちまちです。そのやる気のスイッチを親が入れることはできません。ただ、あきらめないで子供を信じてあげることです。

 そしてフラストレーション・トレランスを子供の時代にしっかり身につけることが大切です。なぜなら、私達の社会は自分の思い通りにならないことの連続だからです。欲しくても買えない。自分が好きでも、相手が愛してくれない。思うように仕事が進まないし、出世もできない。好きな仕事に就く人もマレです。子供の進学も思うようにならない、配偶者の気持ちすら思うようにならない。ならないからこそ、これだけ離婚する人が多いのです。それが、社会です。しかしながら現代人は、現実を受け入れるフラストレーション・トレランスが弱いのです。
 「友達とは必要な時以外は付き合わないよ。楽しい時だけ一緒にいたいから、だってメンドウな関係になりたくない!私、深い人間関係はイヤなの。」「あの先生が嫌いだから、殺してやろうと思った。」「飛行機の操縦がどうしてもしたかった。だからハイジャックをした。だって乗りたかったからさ」「友達をバットで殴ったから、親に迷惑かかるなぁって思って、死んだ方が母さんイヤなこと見なくて済むじゃない」「僕が好きだから良いじゃないですかぁ。彼女を追いかけ回しても。僕、ストーカーじゃないよ。愛だよ。」「お金ほしいから、身体を売るの」「何かスゴイ事やると、みんなが僕を見てくれるでしょ。だからバスジャックを考えたんだ」「僕このままでは、生きているのか死んでいるのか分らないから。社会に僕が生きていたんだと認めて欲しくって、事件を思いついた」「他人の生活がうらやましいから、その子供を殺そうと思いました」いろんな事件の陰に隠れているのは、現実に耐えれない。自分だけは特別でありたい。わがままさなのです。まるで、子供のような心理なのです。「事実を受け入れ、その中でくさらないで明るく生きてゆく」それが健全な大人のパーソナリティです。
 子供を育てなければいけない大人たちも現実に耐えられない。
 「子供が生まれて、私なにもできなくなった。人生損してるわ。老いるのはいやだから、不倫をするの」
 「どうして、この子は他の子のように出来ないの。それが私には我慢できない」「人生おもしろくないから他人の悪口で楽しもう」「ワイロだよ。間違っていても、夢のためならね」これらは大人達が普通の生活に耐えられなくなってきているのです。誰もが引きうける凡人の日々の生活に耐えられない。真の強者は普通の生活をくさらないで生きる人なのです。今の社会は、フラストレーション・トレランスが身についていないのです。

 ですから、幼い子供の時代のストレスは大人になる為の準備です。そして欲求の対立である子供のケンカのストレスは子供にとって多少は必要なのです。そして子供たちは現実との間で自己調整してゆくのです。
「子供がイジメられているのに見過ごすことは出来ません。」と言われている幼い子供の親建ちは、一度考えられてはいかがでしょうか。子供のフラストレーション・トレランスを鍛えることを。
 イジメられている子供を見ている「私がかわいそう」「私がその現実に耐えられない」と言うことなのかもしれません。ならば、親自身ののフラストレーション・トレランスが試されているのです。人生は思うようにならない。それを引きうけて、強く生きていくのが大人なのです。

 いつの日か、子供は親もとを離れて社会の中へ旅立ちます。社会は望むと望まずとも、理不尽な側面があることも現実です。危険な人もいますし、危険な集団もいるのです。「清濁一緒に併せ呑む」汚水を飲んですぐに染まるようでは困るのです。「清き水には魚住まず」清き社会ではないことが残念ですが現実です。「ウチの子は綺麗な現実しか見せなかったし、ふれさせなかったから大丈夫です」と言われた親の子供が、社会に出て、傷ついてカウンセリングに来訪されるのです。キタキツネは子供を巣から噛んで追い出すのは、現実の厳しさを教える親の本能です。現実には親が守れない世界が子供の未来に広がっています。いつか子供達は大人の世界に旅立ちます。その時に彼らが生きる武器はさまざまな経験です。それだけが彼らの強さです。決して本で得られる知識だけではありません。でも大丈夫です。多くのフラストレーションに耐えた子供はきっと乗り越えるはずだから。
 最後に大人たちが笑って過ごしましょう。たとえどんなに大変で、苦しくても大人は笑えるのだと。そして大人になると、その力が身につくのだと。それが未来の君たちの真の姿なのだよと・・・・・・

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