もの言わざるは腹ふくれるわざなり | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■もの言わざるは腹ふくれるわざなり
2001年3月8日
 黙秘権の行使。アメリカ合衆国憲法の修正事項の第5条(Fifth Amendment)で保障されている基本的人権です。アメリカ英語ではtake the fifthと言えば誰もが黙秘権だとわかるのです。アメリカ映画で刑事が被疑者を捕まえる時に「おまえには黙秘権がある。しゃべった事はすべて裁判の時の証拠になる。それに、おまえには、弁護士を呼ぶ権利がある。」と言うシーンを見たことがあるのではないですか。これをミランダ警告と言います。

 ミランダと言うのは“人の名前”です。この法律に名前がつけられた若い男エルネスト・ミランダは法律の専門家ではなく、アリゾナに住んでいた浮浪者です。そこがアメリカの不思議なところです。
 この男、18歳の女性を誘拐し強姦した最低な男です。すぐに有罪になり逮捕されました。このミランダは逮捕時に警察の前で自分から罪を告白しました。この時に警察は威圧的な態度は一切とっていません。ミランダが自供したことで刑務所に投獄されたのです。
 
 この事件は、逮捕から有罪までが万事順調に進んでスピーディに解決した事件でした。これが、合衆国司法制度の根幹を揺るがすことになろうとは、この時は誰も想像できなかったのです。
 しかし、投獄されてからミランダはつくづく自分が、なぜ有罪になったのか理由を考えました。自分は、何らかの人権を持っていたはずで、何もあんなにべらべら自白しなくてもよかったのではないか。逮捕時に、知識のない自分のような人間に基本的人権を持つものとして何らかの忠告を受ける権利があるはずだ。

 彼はこうして獄中からアリゾナ州を相手に法廷闘争を始めました。レイプ犯に基本的人権があるの?と思われるかもしれませんが、法の上では人は平等の権利があります。
 彼の訴えに当時、日の出のような勢いのある市民権法弁護団体が後押しする形になり、1966年に歴史的判決がくだりました。

 ミランダの逮捕ならびに訊問において、警察は彼に黙秘権のことを知らせなかったのは憲法違反であるという彼の言い分が完全に勝訴したのです。
 そこで、憲法違反が再び起きないように、逮捕の際には憲法を読み上げ、容疑者には逮捕時の警察訊問のような低い段階では、任意自白などしなくてよいのだという警告を与えねばならないという決まりが、アメリカ最高の司法機関で決められたそうです。
 
 人権保障の国が、アメリカ社会です。だから、「えひめ丸」と原子力潜水艦「グリーンビル」の衝突でワドル艦長の事情聴取拒否に多くの日本の国民は度肝を抜かれたが、謝罪をすることより自分の立場の保身を優先する考えは、お国柄の観がある。しかし、日本でも最近の日航機同士のニアミス事件でも、操縦士が本社に報告の前に、弁護士に連絡を取り合ったということにしても、国会での証人喚問でもホントのことを語る気持ちは日本のお偉方にはないようです。目の前の人への謝罪や問題解決を処理しないで事実から逃避する。 

 沈黙は金なりということなのでしょうが、事実をキッチリ語らないのは単なる逃避なのです。今回の事件でも情報を開示しないことが関係者や周囲に混乱を招いてしまうのです。そしてこの逃げの姿勢はやがては絶妙なる言い訳に転化する。

 老いた抑うつ患者がいた。彼は学生時代、自分は百姓になると言い出した。アカデミックな日常に染まる、周りの奴はバカだとアピールしたかったのでしょう。そして彼は農業をせずに学校を卒業して教師になった。しばらくすると、先生を辞めて自分は実業家になると言い出した。給料の少なさの不満から、俺だって仕事を変えればただの男じゃないとアピールしたかったのでしょう。そして、彼は定年まで教師を辞めなかった。定年後は山にこもって修行すると家族に言い出した、自分は世俗に染まる器ではないと自分の偉大さをアピールしたかったのだろう。そして、彼はうつ病になった。このうつ病患者のように全て言い出したことに責任を取らずに、その時々に自分を自己拡大して見せることに努力していると、すると「あの人は、その時々に言うことが違ってくる」と人が離れ出す。それをつなぎ止めるために、また、大きな自己弁護の立派なアピールへと駆り立てられてしまうという悪循環に入り込む。
 
 これらの自己アピールの人は周囲が自分を分かってくれない、自分を責めていると被害妄想にかられることになる。この人を救うのは自分の「言動」と「やること」のズレを修正することだと思う。アピールする前に日々のマンネリしそうな生活に命をかけることです。外に偉大さを示す前に、内の家族を守ることが何より偉大だということに気づくことなのです。自分が傷つけたであろう人と和解をしないで、自分の中に引きこもる。自分がうまくいかないことを引きこもったままで親や社会、いや周囲の責任にする。「耐える」という言葉ですら自分は耐えていると、アピールの材料にしてはならない。

 これからの時代は、ますます日々の生活を守ること、隣人と仲良くすることが何より難しい。そして何より出会った人々と末永く持続してゆくことなのです。継続は力なり。そして自分のココロの動揺ぐらい冷静に見つめて行きたいものです。

           ≪自分の感受性くらい≫
    
       ぱさぱさに乾いてゆく心を
            ひとのせいにはするな
                 みずから水やりを怠っておいて

     気難しくなってきたのを
          友人のせいにはするな
              しなやかさを失ったのはどちらなのか

      苛立つのを
          近親のせいにはするな
            なにもかも下手だったのはわたくし

        初心消えかかるのを
              暮らしのせいにはするな
                  そもそもが ひよわな志にすぎなかった

      駄目なことの一切を
           時代のせいにはするな
                 わずかに光る尊厳の放棄

       自分の感受性くらい
              自分で守れ
                   ばかものよ


   詩:茨木 のり子    発行元:花神社    紹介者:田村 江里子      

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