そよ風のように・・・・ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと

■そよ風のように・・・・
2002年4月30日




 
 川柳に「あらうれし 隣りの蔵が 燃えている」
というのがあります。他人の失敗や相手のダメさを見つけ喜んでいる、人の心の残酷さを表現した川柳です。

 悲しいのは、人が失敗することではなく、それを見つけ出しては喜んでしまう我々の心の貧しさです。人間は完璧ではありませんね。僕は自分を含めてそう思っています・・・・・完璧でない人が完璧でない人の弱点を見つけては攻撃する心理をマイナスのプロジェクション(負の投影)と呼びます。

 もちろんプラスのプロジェクションもあります。何事も前向きにポジティブに考える人が、人もそうだろうと思い部下や恋人を信頼する。

 しかし、現代はマイナスのプロジェクションが多いようです。そしてそれが社会の中でさまざまなトラブルをつくります。

 なぜ人を責めたくなるのでしょうか。それは自分の中にも、責めている相手側と同じ弱さが存在するからです。その自分の一部分である人間的弱さを否定する、毛嫌いする、無意識に追いやるほどに、そのことが自分のマイナスな影(シャドー)としてクローズアップされてきます。結果的にそれに脅えます。

 だから他人の中に同じ弱さ(シャドー)を発見すると、自分の嫌な側面を見ているようで怒りがわいてくるのです。お金にうるさい人ほど、財布のヒモの固い人に「彼はケチだ」と攻撃します。男性に心の奥で認められたい女性ほど、男性に「可愛い女」として近づく女性に「あの子はぶりっ子だから」と攻撃がきつくなります。

 自分に浮気願望が強い人ほど、人は誰もがみな好色で浮気したいのだと思い込む。だから恋人を心から信頼できないのです。
 人はサボるものだと思っている上司は、部下の行動をマイナスから判断しがちです。「やつは手を抜いてたんだ!」と最初から決めてかかってしまうのです。

 私たちが人に対して寛容、許し、受容が大切とわかっていても、それは自分の弱さや愚かさを鋭く見つめた人でなければ負のプロジェクションを起こしてしまうので、簡単ではないのです。「汝自身を知れ」ということが大切ですね。

 人を厳しく責めるタイプの人に出会うと僕は閉口してしまいます。たとえ「正義」の言葉であってもマイナスの怒りエネルギーを感じとるからです。

 ある看護婦さんが仲間の看護婦さんの悪口を話す。「私は毎日、お弁当をお金を出して買っているのに、あの看護婦ときたら病院食の残りを食べて、お弁当代を浮かしている。それが許せない」のだと。僕は「許せないんだ…」と相づちをうちながら、「この看護婦さんも、できれば病院食の残りを食べてお弁当代を浮かしたいのだろうなぁ」と思ってしまいました。

 この看護婦さんの言たいことは「自分は他人の目もあるし、立場を考えて日々努力しているのに、あの人ときたら堂々と、自分だけトクしちゃって。許せない。ズルいわ」ということなのです。

 もし彼女の買ったお弁当を、仲間の看護婦さんに毎日横取りされて困るというなら、明らかに、この看護婦さんは被害者です。彼女が目くじら立てて怒る気持ちもわかります。しかし、もともと「残り物」なのです。ほっておいたら捨てられるかもしれないものです。何より仲間が院内食を食べても彼女には直接の被害はありません。でも彼女は一時間近くカウンセリングで怒っていました。

 人からすると「私はそんなことしないなぁ」と笑って終ることでも、ある人にとっては感情をスッと流せない。何か“引っかかってしまう”。簡単に言うと面白くない。

 このようなタイプの人は今の自分の人生に満足していない事が多いようです。自分の「人生がうまくいかない」のは、「誰かの」「何かの」責任なのだ。誰かを血祭りにあげたい。自分の不満を発散するためのイケニエが必要なのです。

 そう、何かに怒りのほこ先を向けると、責任対象があれば、とりあえず問題の責任を誰かのせいにすればよいのです。何より複雑な問題を考えずに「誰かが悪い」と攻撃すれば、自分に対する欲求不満は一時的に処理されます。とりあえず自分の能力の限界を認めることも、自分自身で未来の解決に取り組むことも棚上げできるからです。

 子供が自分の不注意で道でころんだ時、「お母さんが手をつないでくれなかったからだ。お母さんが悪い」と責めることがあります。これは幼い心のはたらきです。自分の不満を、誰かを攻撃することで処理する心理と同じです。

 今回、日本に帰国して感じたこと。それは日本人の多くが不機嫌だということです。集団ヒステリックにおちいっているのではないかと感じることがあります。特に国会や、テレビのニュースキャスターの苛立ちはスゴイです。

 そして現代日本はこのマスメディアの影響力がかつて経験したことがないほどに、人々に色濃く影響を与えています。そして日々、大衆の怒りはよりヒステリックに変わっていくようです。

 マスコミは誰かを持ち上げては、総攻撃で物笑いの対象にしていきます。アメリカのパブリックな新聞は紙面の中に正論、異論が記者によって意見が異なります。これは新聞を読む読者が自分自身で判断するためです。それだけマインドコントロールの危険性が少なくなります。マスコミはまたもや総理大臣の首のすげ替えに動き出しました。日本ほどトップの顔がクルクル変わる国は世界でも珍しいのです。

 もともと変革には時間がかかります。バカでも、デクノ坊でも、時間をかけて育ててゆこう。とりあえず変革には時間がかかるのだから・・・の余裕は今の日本にはありえないようです。

 アメリカの低成長時代から強いアメリカに生まれ変わるにもかなりの時間がかかりました。だから、アメリカの大統領には任期があるのです。これは政策には準備と熟成がいるのだということです。日本のようにヒステリック社会では「育てる」「見とどける」「待つ」ことなどは過去の考えになってしまったのでしょうか・・・

 今、国政はパニックの中で慌てて次の手を考えるヘタな将棋に似ています。急いで結果を求めて、より最悪の結果を生みます。そして思考がストップし、基礎土台作りを待てず「建物が出来上がらない」と苛立つ。ならば設計者を変えればよいのだと基礎から積み木を崩して振り出しに戻るのです。そして、欲求不満は数々のマスコミがつくりだすスキャンダルに苛立つことで麻痺させるわけです・・・・

 今回人種のルツボ、アメリカで感じたこと。それは今、世界の中で日本以外のアジアの国や友人が元気なこと。また以前は発展途上だった国が、今はとても勢いがあって元気だということです。それは単に経済的なことだけではありません。ある独特の熱気を感じるのです。前向きに未来を夢見ている明るさというのでしょうか。小さな問題や汚職ですらエネルギーに変えてしまうバイタリティーにあふれています。

 彼らはハッキリ言ってきます「ノブ。日本の時代は終わった。これからは我々の時代だ」と。「何を言いやがる」と思うのですが、確かに彼らは日本人に比べて今とても元気があります。日本の元気の無さ、将来の日本に対する不安をアメリカで知り合ったMBAを持つ友人数人に話しました。さすがに優秀な彼らは日本の技術力のスゴサを親切にたくさん並べてくれます。

 「技術力」そう、その言葉。
 僕には念仏のように繰り返されるその日本のより所こそ、それ自体が過去への固執に思えてしまうのです。未来への志向ではないと・・・・・。もちろん僕と同じ危機感を感じていた日本人も数人はいたのですけれど・・・・僕が日本の将来に不安を感じることは、理屈では語れない皮膚感覚ということでしょう。

 時代が作り出す雰囲気のようなもの。心理的な前向きエネルギーの衰え。日本が戦後焼け野原から復興を果たす過程で、悪しきものをも呑み込んでいくエネルギーや、人々が前しか見なかった頃の上昇の風向きを感じないのです。元気な文化が「清」「濁」一緒に併せ呑む。豪快で、でくの坊で、愚かだけど爆発的なエネルギーを今の時代からは感じとれません。怒り、批判、しらけがまんえんしているようです。

 人はこじんまりまとまり、優等生的で反省モードに入り、みんなで責任を押し付け合う。攻撃の対象を探し、それを攻撃することで人生の苛立ちを忘れる。このようなことを言えば、権力による利権の問題、狂牛病問題、雪印輸入牛肉差し替え問題などなど、衛藤さんは「どうでも良いのか」とお叱りを受けるかもしれません。もちろん悪いことは悪いことです。良くはないのです。一つ一つクローズアップすれば腹立たしい問題ですし、テレビで見ていると当事者のように腹が立ちます。しかし、一方では冷めている自分がいるのも事実、正直な気持ちです。

 戦後の日本なら「食えれば良かった」のです。もちろん僕は狂牛病の死亡率が交通事故の死亡率と比較して一笑にふす問題だと笑い飛ばすほど楽天家でもありませんし、輸入牛肉を国内産だと騙されたら不愉快にも感じる平凡な人間です。

 敗戦国から世界のトップになるまで、未来に向けて、わき目もふらずに走っていた頃の日本は、「ヤミ○○」や、「汚職」が日常の中に取り込まれていました。それすらも経済発展の原動力に変えてしまっていたのです。それが元気な国の前向きで華やかな熱気なのです。人は人、自分は自分がやるべき事に集中すれば、他人に対する苛立ちからは離れられます。

 僕の親の時代には、こうした悪をも呑み込んでゆくほどの時代の熱気があったように感じます。もちろん“汚職は正しい”とか、“誤魔化し社会”を賛美するつもりは毛頭ありません。ただ、「大衆心理」という分野で時代を見てみると、日本の危機感を感じてしまうのです。


 話が変わりますが、小泉総理が日本でスゴイ支持率があった頃、僕は日本の総理大臣にあきれていました。アメリカ人から「日本では総理のポスターが売れているらしいが、ノブは知っているか?」「知りません」・・・・アホくさー。何やってんだぁ〜日本人。それぐらいの印象でしょうか。

 帰国後すぐに、NGO参加拒否問題がありました。権力の乱用と外務省役員、鈴木宗男氏、田中真紀子氏のドロヌマ合戦。「誰がウソをついているのか?」と、連日マスコミの報道は続いていました。当然ながら国会の予算審議はストップ。与党、野党のヒステリックなやり取り・・・・・・

 国会は一日数億というお金がかかるそうです。僕は「誰かがウソをついているのだろうけど、誰もがそれぞれの保身があるので、『私がウソをつきました』とは言わないな。国会を止めてまでの大混乱・・・こんなことをしていても決着がつかないだろう」と心理的に冷めてみていました。

 その状況の中で、小泉総理が三人とも更迭というオオナタを振るった。確固たる証拠が出てこない以上は個人的な怒りは捨てて、未来のためにケンカ両成敗。各自に腹を切ってくれと依頼した。もちろん今の時代、本当に腹を切ることはない。つまりは死なないわけです。小泉総理は正常な国会運営に立ち戻ろうとしました。

 まさに「私欲を捨てて大道に立つ。」幕末の志士なら望むところです。後になってマスコミにあおられた田中真紀子さんも、だんだん腹が立ってきた様子で、のちに怒りを小泉総理に向けました。このようにマスコミの火付けワザはプロ級なのです。「火のないところに煙を立てて、すべて話題に変えてしまう」日本の混乱はマスコミのせいではないかとすら感じてしまう今日この頃です。

 小泉総理に田中真紀子さんは、個人的な感情論の攻撃を展開させ始めました。彼女にとっては自分の腹立たしさや個人的感情のほうが、国のまつりごとより重大ごとのようです。もちろんこの感情のやり取りは他の政治家にもいえることです。

 僕はこの事件で、小泉総理の株は少し上げました。「なかなか、やるじゃん」責められることを覚悟の決断と・・・・感情のやり取りより国の建て直しを優先させたことにです。ところが、世論はそうではなく「田中さんが可愛そう」と小泉総理の支持率は急降下しました。どうも僕は大衆とは思考が違うようです。

 確かに鈴木宗男さんは今となっては嘘をついていたようです。でも、疑わしきは罰せずは民主主義の基本原則。あの頃は確かに鈴木さんは「疑わしきの枠」は出なかったのです。もし感情論だけ、見た目だけで人を裁くなら、暗黒時代の魔女裁判です。ヒゲに後ろ髪を束ねた今の僕などは話も聞いてもらえないかも・・・・・・

 別に僕自身、政治に詳しいわけではないし、誰かを弁護したいわけでもありません。ただ、世界の中で取り残されつつある日本なのに、国家のリーダー達が子供のケンカのような状態だから情けないのです。

 我々は、いつから物事を腰をすえて取りかかること、何かを時間をかけて成功させることができなくなったのでしょうか?どちらにしてもこれだけセッカチな日本人には基礎からの構造改革などは望めないのかもしれません。

 人情論を政治の世界に持ち込み、枝葉末説にこだわって重箱の隅をつついて騒ぎ立て、ショーとして面白くしたいマスコミと、その報道にあおられて、少しの時間と結果だけで判断しようとする国民。そして未来の大局にこだわりすぎて細かい説明をはぶいて大ざっぱになる小泉総理とのやり取りが、まったくかみ合わないのです。これも経済大国日本の落日の予兆なのでしょうか。

 「経済社会」の崩壊など、「心時代の夜明け」を夢見る僕には未練はないのですが。ただ、心の荒廃が進んでいく事には危機感を感じています。たとえば、鈴木宗男氏の友人だからと松山千春さんが「僕は彼を信じたい」発言したら、彼に今度は非難が集中しました。奥さんが手記に「それでも私は夫を信じている」と書けば、テレビのコメンテーターが「妻である前に、あの奥さんも国民でしょう。国民として、奥さんは鈴木氏に怒りはないのですかね」とヒステリックに吐き捨てました。

 僕も誤解を怖れず、非難されることを覚悟して言わせていただくと、僕はこの言葉にはコメンテーターの人情の無さに驚かされました。今の日本には「思いやり」とか「武士の情け」などはなくなってしまったのですね。

 僕はカウンセラーとして、いつも貧しい想像力をふりしぼって、色んな立場の側になりきって考える癖があります。僕の妻なら、友人なら、僕は松山千春を友人として選ぶし、自分を信じていると言ってくれる人を妻に選ぶでしょう。

 また、僕はすべての人に、ある友人が疑わしいと言われても、やはり自分から友人を責めることはしたくないし、夫なら妻を最後まで信じてあげたい。それがたとえ、でくの坊で鈍感と言われたとしても。そんな考えが古い価値観と言われても・・・

 そんな人間の情けすらが、一般大衆の苛立ちになっているのだとするならば、現代はヒステリックな社会だと僕は思います。

 僕は辻元清美さんが鈴木宗男氏を国会の答弁で「あなたは嘘の総合商社なんだから」と言った時も、正義の側に立つ人は愉悦的な表情になるもので、彼女はそれに酔いしれていると感じて、あまり心地よくはありませんでした。その後、彼女が非難される側に立った時には、人生の悲哀を感じて心の中がカラッポになりました。なぜなら、人はみな鈴木氏にもなりえるし、辻元氏にもなりえるから・・・・罪を憎んで人を憎まずで生きてゆきたいものです。

 もちろん正義を声高に叫ぶのもいいし、理想的な人間論を説くのも大切です。でも、1+1=2にならないことがあるのだという、人の心の哀れさも見つめていたいのです。それが人間世界の深遠さでもあり、不条理さなのかもしれませんね。

 相手の落ち度を責めている時、人は自分が正義の使者、その人より自分は優れていると優越感に浸ることができます。その時に自分がどれほどの者であるかを冷めて突き放して見ている目を持ちたいものですね・・・・仏様のヒタイにある悟りの目は、自分自身を見る目だそうです。

 誰にもそれぞれの正義があって言い分があります。その自分の正義が時に人を深く傷つけるものだということを・・・・善意の宗教をもった人々の間で、どれだけの純粋な血が流されたかを・・・それはいまだに聖戦(ジハード)となって続いています。

 「あなたのために…」の自分が信じる正義が、地獄を作ることもあるのです・・・。穏やかに笑っていたい・・・そのような年を重ねたい・・・・すべての流れを受け入れる穏やかな心を持ちたいですね。


 僕の好きな詩を一つ・・・・・


《祝婚歌》   吉野 弘

二人が睦まじくいるためには 愚かなほうがいい
 立派すぎないほうがいい 立派すぎることは
   長続きしないことだと気づいているほうがいい
完璧を目指さないほうがいい
   完璧なんて不自然なことだと
         うそぶいているほうがいい
      二人のうちどちらかが
          ふざけているほうがいい
               ずっこけているほうがいい
  互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
 正しいことを言うときには
      相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい
立派でありたいとか
     正しくありたいとかいう
         無理な緊張には 色目を使わず
          ゆったり豊かに
             光を浴びているほうがいい
 健康で風に吹かれながら
    生きていることのなつかしさに
              ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
    そして なぜ胸が熱くなるのか
               黙っていても
                  二人にはわかるのであって欲しい


 これは結婚式に捧げる詩ですが・・・すべての人間関係に言えることだと思いませんか・・・・・言葉は時より凶器になります。ならば、穏やかに受け入れて引き下がるほうがよい時があります。沈黙は、どれほどたくさんの愛の言葉よりも、優しいこともあるのです。説得と論議と自己主張の時代に静かな微笑が胸を打つときがありますね。


心理カウンセラー 衛藤 信之
        そよ風のように生きたい、今日この頃。







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