奇跡ということ・・・・ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと

■奇跡ということ・・・・
2002年7月18日




 アリゾナで、ほとんど雨のない生活を経験した僕には、湿っぽい初夏は、あらためて日本の夏の大変さを思い出させてくれた。でも、それが不愉快というのではない。雨が降る時には雨が降り、セミが鳴く時にはセミが鳴く。日々が変わらないことに喜びを感じ、確実にめぐりくる季節に感謝ができるようになってきたように想う。雨が静かに大地に降り、すべての命に浸透し、生きる活力を与える。雨は「感謝しろよ」と強要することなく静かに降り続く。風も太陽もそうだ。すべての自然は、いつも静かに与えることをいとわない。

 この静けさはインディアンの生き方に似ている。インディアンの人々は、決して声高に知識をひけらかすことはなく、人に教えを説くという押しつけの態度もみられない。彼らインディアンは時に沈黙を好む。それは彼らが沈黙の持つ雄弁さを知っているからだ。
 インディアンの人々は毎日鳥達の飛ぶのを見ている。沈む太陽で明日の天候を知り、雲の動きで季節の移ろいを理解する。自然の中で、彼らは自分を取り巻くすべてを感じているのだ。彼らが自然のメッセージをないがしろにすることは一つもない。

 街の中で暮らしていると自然からのメッセージが届きにくい。自然と切り離された人工環境で暮らしていると大地の鼓動を感じることもなく、アスファルトとコンクリートの中で生きていると自分が自然の一部であることも見失う。それは日々出会っている周囲の人に対しても同じように鈍感になり、相手にもやさしい小川のように温かい血が流れていることをも忘れてしまう。だから、意味もなく”汚い”ということでホームレスの年輩者を襲撃する若者が現れる。

 人や自然に対する見落としは、自分の中にある自然への鈍感さにもつながっている。たくさんの細胞が今この瞬間にも、ひとときも休むことなく大きな身体を生かすために働いていること、その秩序だった動きこそが奇跡だということ。何か一つの歯車が狂えば、僕達は一時も生きれない。その奇跡の集合体である身体を持て余しながら苛立ちと不愉快さだけを感じながら多くの人々が怠惰に日々を過ごしている。

 奇跡を求めてあやしい信仰宗教や危険なカルト集団に入る人々がいる。そして、殺人を正当化して奇跡で作られた他者の身体を殺めた集団もある。

 「奇跡は特別なところにあるのじゃない」インディアンの長老は胸を指さして静かに笑った。

 僕達のまわりにはたくさんの奇跡が起きている。季節が確実に繰り返される奇跡。家族と出会えた奇跡。仲間がいる奇跡。仕事がある奇跡。明日も生きていることができる奇跡。今日も生きぬいた奇跡。だから、彼らインディアンには感謝の儀式がたくさんある。彼らの生活そのものが感謝をささげる儀式なのだ。彼らの笑顔が美しいのは生きていることへの感謝が表情に表れているからだ。

 感謝をして子供と出会いなさい。感謝して家族に出会いなさい。そして今日という日に出会いなさい・・・・・そして笑っていなさい。

 そう「今日という日は、生きるのにもってこいの日」ですね。





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