真実の怖さと嘘の優しさ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと

■真実の怖さと嘘の優しさ
2002年10月11日





 ある女性のカウンセリングで、結婚に際して今までの男性関係を彼に打明けた方が良いか、よくないかという相談がありました。自分の中にある「秘密」を話したいという気持ちは誰にもあります。好きな人に秘密を語ることで一時的に一体感や親密感を感じられるからです。

 英語のシークレットはラテン語の「分泌物」から生まれています。誰かに秘密を伝えることは、外面から見えない体の中で作られたものを見せ合うことです。それにはお互いの親近感をもたらす効果があるのです。口づけやSEXで得られる親密感も分泌物交換による感覚なのです。

 子供は母親に自分の中で作られた排泄物を処理してもらって育ちます。だから、母親と子供は一番親しい間柄になりやすいのです。誰に自分の内面である秘密を見せるか、伝えるかで、その人が誰と親しく、誰と親しくないのかを垣間見ることがあります。ですから、親しく人に寄って行き、見せかけ上の親しさで秘密を誘い出し、ある一方ではその秘密を平気で他人に流す人は「口の軽い人」と軽蔑されて、やがて信用を失います。

 そのような人は自分が認められたいために、”みつぎもの”として誰にでも他人のプライバシーを語るのです。他人の秘密はそれ程に簡単に人の口にのりやすいのです。だから、「秘密」の確保はカウンセラーの絶対条件になります。

 カウンセリングをしていると愛し合っているピーク時で、愛情確認のために語り合った互いの「秘密」が、離婚時には相手を一番傷つける武器に変わることがあります。「お前は誰にでも足を開く色情魔だ!」もっとも人間を信じられなくなる悲しい瞬間です。もちろん誰も別れや離婚を想像して、恋愛や結婚をする人はいません。

 このように未来は誰にも予測はできないから「秘密」をどのように告白するかは大切な問題なのです。

 サラリーマンの世界でも、お酒の席で語られたことが、白日の中で冷静に語られることがあります。このような話はビジネスの世界ではよく聞く失脚話です。そのような失敗を恐れて「最初から、人なんか信じない方がよい」と、冷めてしまっている人が増えています。でも、それではふれあいのない寂しい人生になってしまいます。

 人間は一人で秘密を保持するのは心理的に負担になります。自分が人に隠し事をしている時、人はとても孤独になります。ですから、それを吐き出して心から楽になりたいと人は願います。問題は誰に自分の秘密を告白するかです。それが重大な選択です。なぜなら、現代はそれをエンターティメントと楽しむ「マスコミ」や「心ない人々」が多いからです。

 他人の秘密を語る時に何がもっとも恐ろしいかというと、「正義」という大義名分で秘密の暴露が装飾されることです。自分が正しいことを信じる時、人は正義の権化、英雄的気分にひたります。人間はそんなに強くはありません。人間の弱さや不完全さをおおう「ウソ」というベールをひっぺがす時、自分が正しいことをしていると思う時、他人のプライバシーを語るという大罪の罪悪感から開放されるからです。

 自分が正しいという正義の御旗を立てた時、人の心は高ぶります。そして声高に相手を攻撃するのです。暴露本を出版する人にも、それぞれの正義があり、戦争にも、それぞれの正義があります。離婚にも、やはりそれぞれの正義があるものです。

 僕は「正義」はそれぞれに対して都合の良い顔を持っていると思っています。最近では鈴木宗男議員に対する辻本清美元議員の偽証追及も、辻本さん自らの偽証露呈という残酷な結末で終りました。相手を声高に責める時には、自分にもその弱さがあるのだと自覚せよと教えられた一件でした。


 話は変わりますが、小泉総理が北朝鮮に訪問以来、拉致疑惑は拉致問題に変わり、生きていると信じていた人が、この世にはすでに存在しないと伝えられました。
 「真実」は時には残酷なものです。昨日と今日で希望から地獄に落とされたのです。人は夢を持ち続けているからこそ未来に希望を持ち、今を生きることができるのです。

 今の世論は虚偽を暴くことが「絶対的に善いこと」と信じられています。でも、人間関係においては真実を語り合えば語り合うほど、現実の残酷さに直面して人は傷つくことがあります・・・・そんなことが多いような気がします。

 昔、妻とデートした時のこと、妻の肩にイモ虫が乗っかったことがありました。その時僕は手で払いのけたのです。「なに?」と彼女にたずねられたので「髪の毛が、付いていた」と応えました。「真実」はイモ虫です。真実を伝えるなら、イモ虫を拾い上げて「ほーら、こんなイモ虫が、君の肩に」と言うべきでしょうが、僕はすでに「大人」になっていました。僕は真実を告げずにウソをつきました。ウソは人を傷つけるだけではなく、人を守ったり、幸せにすることもあるのです。

 北朝鮮に対して真実の突破口を開いた小泉さんは恨まれ役になり、拉致被害者の家族は元気を失ってゆく。もちろん勢力的にマスコミに登場して活動しているように見える拉致被害者の家族の心は、外に出ているエネルギッシュさとは裏腹に、危機的状態だと思います。横田めぐみさんの父親が時々見せる咳き込みはその表れです。現実を突きつけられたご両親が最近とくに老けられたようで痛々しく感じられます。

 拉致被害者の家族は「絶対に息子や娘は生きていると信じている」と、自分達に言い聞かせるように語っています。このような反応は人間の健全な反応だと僕は思っています。人間は希望がなければ生きてはゆけないからです。

 死の臨床の研究者キュプラ・ロス博士は言っています。人間は自分が納得できない出来事に対して「否認」という心理的なプロセスに入ります。不治の病の告知に対して、人はまずは否認することが多いのです。

 次に「怒り」(情動)があり、「取引」という段階がおとずれます。これは、「神様これがウソだと言ってください。」「それをかなえてくれれば私は何でもします。」「生まれ変わってよい人間になって働きます。」

 そして変わらない現実と対面して次に「うつ的」な気分になります。そして上手くゆけば最終段階で、「デカセシス」(受容と解脱)の段階へと進みます。これは自分の死を受け入れ、この世に残されるであろう人々のために役立つ何かを残そうとするのです。このように人は自己実現の境地に入ってゆくのです。

 これは人が「老い」にさしかかるプロセスにも似ています。また、「大切な人」や「恋人」に去られた時にも、「これは何かの間違いだ」「これは悪夢に違いない」「これには何かの間違った理由があるはずだ」と「否認」から同じようなプロセスをたどり「執着」から「新しい未来のある何かへ」と歩き出すのです。

 拉致被害者の家族の気持ちとは別に、周囲の人々や外野のマスコミが家族の「否認」したいという気持ちをいろいろな推測で拡大しています。もしも、現実が最悪の結果である、「本当に子供は死んでいました。」か、「永遠に真実は時代の流れで見えないのです。」という事に落ち着いた時に・・・・周囲の外野陣は今のように被害者家族の心のよりどころとなり、熱心に支えてくれるのだろうか?ブームが終わった時、潮が引いたようにマスコミも支援の政治家も被害者家族からサッサと離れて行くことがないように祈らずにはいられません。

 時間が経過していく中で一番家族を傷つけるのは誰なのだろう。正義の味方役の人達が人気取り政治家と視聴率稼ぎのマスコミだとしたら・・・・・本当の「正義」はなんなのだろう。僕は「正義の味方」の本当の怖さは、一時的な同情心と、長期にわたって、ブームではなく自分の正義を貫き続けることが出来るか?を確かめもしないで、自分はヒーローだと信じ込むことです。

 何より寂しいのは、連日のマスコミの拉致問題について世論調査で半数近くの人が国交正常化交渉には反対しているということです。

 ホントとウソ。真実と虚偽。正義と悪者・・・・僕には何が真実かわからない。でも、北朝鮮の子供達が、今こうしている時にも餓死で死んでいるのもまた真実な事なのではないのでしょうか?

 「真実」か「嘘」か人間という存在は誰にも二分化など出来はしない。真実であるか嘘であるかは誰にも判らない。けれども、そのギリギリのはざまで信じることで「ロマン」が生まれる。間に合うかどうか、救われるかどうか判らない。それでも「メロスは走った」友を救うために。

 だまされていると思っても、それでも人は人を救わずにはいられない。信じることを求める。ムダに終わるか、だまされるかわからない。でも、だまされても人を救いたいと思う時に人はロマンの中で生きることが出来る。未来の人にバカと言われても、でくのぼうと言われても、それでも人を救うために与え続け、信じ続けることを人は愚直と言うのではないですか。現代日本の人々はみな政治家になってしまったのだろうか・・・・・日本人のやさしいロマンよふたたび。






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