戦争への招待状 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■戦争への招待状
2006年10月10日






 誰もが幸せになりたい。誰もが不安を持ちたくない・・・・

 北朝鮮が核実験をした。誰かの不安が恐怖の世界を作っていく。安心できない未来が、安心できない未来社会に向かわせる。

 彼らの国でも希望を胸に今日も新しい命が生まれている。彼らの国でも今、誰かが誰かに愛を誓っている。この瞬間にも、あの国でも誰かが自然に感動して涙を流しているはず。それだけは確か・・・・

 テレビでは、恐ろしい映像が流れる。彼ら国民がいかにコントロールされ、恐ろしい社会であるかを。放射能が日本に来ないか?彼らの国の子供達の健康は議論されない。悪い国、北朝鮮。日本人がすべて軍事評論家になる。まるで、シュミレーションゲームをしているように。

 恐ろしいのはあの国も、僕たちの心も・・・

 太平洋戦争の開戦の知らせは、突然、朝の体操の時に、「わが国は、本八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入りました。」と聞かされ、普通の日常が、ガラリと変わり戦時体制になったことを、ある先輩の生徒が話してくれた。徐々にではなく、ある時、突然に戦争に・・・・国民には何の相談も説明もなく・・・・子供には何のことだかわからないままに。

 太平洋戦争も、誰しもが勝てると思って戦った戦争だった。勝つとは何に?

     大漁
             詩:金子みすヾ

    朝やけ小やけだ
    大漁だ
    大ばいわしの大漁だ。
    浜は祭りのようだけど
    海の中では何万の
    いわしのとむらいするだろう。

 今日もテレビで有名な司会者が眉間にシワを寄せて、「『遺憾だ』と日本政府は言うが、空虚に聞こえる。日本は『遺憾だ』の次に何をするんだ。何も出来ないじゃないか!言葉ではダメだよ!」と日本中の誰もが、この司会者のように臨戦態勢に入っていくのか・・・・

 戦争って?

 「今日もまた大豆ごはん。僕、大嫌いなのに」
 「そんなぜいたくを言うものではありません。戦地の兵隊さんのことを想ったら。兵隊さんは泥水を飲んだり、草を食べたり苦労しているのだから。我慢して食べないと駄目でしょう」
 「つまらんのう。つまらんのう」
 私から叱られ、あなたは涙を浮かべてしかたなく食べました。八月六日は登校日だったので箸をおくとすぐにランドセルを背負って家を出たのです。その姿が私と永久の別れになろうとは。

 勝司ちゃん、あなたが生まれて二週間後に「支那事変」が始まり、そして八月六日から十日後の終戦。戦争の間にあなたは生きていたのね。人間らしい楽しい生活も知らないままに。あなたが、もの心ついた頃から夜は燈火管制で暗闇の生活。食べ物は大豆ごはんやヌカのまじったおだんご。あなたは大豆ごはんが大嫌いだった。
 八月六日のその朝も、お母さんはしかたなく大豆ごはんを炊きました。「嫌い」と言ったあなたは、お母さんに叱られて、涙をいっぱい浮かべて食べました。そして学校へ行ったのね。ランドセルを背負って「行ってきます」と・・・

 これが最後の言葉でした。あなたはそのまま二度とお母さんのもとへは帰ってこなかった。あの時なぜ叱ったのだろうと、二十数年経った今も心に残ってしかたがないの。あなたは、どこで死んだの。火に包まれながら「お母さん、お母さん」と泣き叫んだのではないかしら。全身に火傷をおいながら、苦しい息の下から「お母さん水を、お母さん水を」といいながら息絶えたのではないかしら。どんな姿になってもいい、もう一度お母さんのところへ帰ってきてちょうだい。 そうしたら、この胸にしっかり抱きしめて、そして真っ白いごはんを、お腹いっぱい食べさせてあげたいの。これがお母さんの切なる願いです。

        =「忘れないあのこと、戦争」より 文芸社  早乙女 勝元 選 =

 この手記を書いた新谷 君江さんは、原爆の日に愛息の勝司君を亡くされました。家族の人を送り出す時には、どんな言いたいことがあってもぐっと心を押さえ「いってらっしゃい」と送り出してほしいと君江さんは言っています。子供を叱って送り出したことは、生涯消すことができないと・・・・

 同じ本の中で、長野の学校で教師をしていた人が、中国の山東省で捕虜の中国人に対して行なった話が出ていた。4人の捕虜を新年兵として連行している時のこと。

 捕虜をともない、部落に隣接した広い畑地に出ると、そこには、すでに高さ二メートルほどの四本の柱が立てられ、後ろにはそれぞれ深い穴が掘られていた。
 この状況を見てとった4人の捕虜たちはハッと顔色を変え、口々に訴えた。
 「私たちは百姓です。八路軍ではありません。助けてください」なかには、十五歳のほどの少年がいた。彼は私にすがりつくようにして言った。「私にはたった一人の母親しかいません。母親が私の帰りを待っています。私を家に帰してください」

 彼は私に泣いて訴えた。私の良心に最後の望みを託して、必死に訴え続けたのだ。この少年の叫びは、確かに私の心を揺さぶった。私も母一人を日本に残して来たからだ。しかし、少年の願いを聞き入れるわけにはいかなかった。少年の願いを聞き入れるのは、戦時中には死を意味した。日本の軍隊では上官に歯向かうことは、天皇の命令にそむくことであり、命との引き換えでしか許されなかった。私は胸をえぐられる思いはしたものの、反射的にその願いを無視せざる得なかった。 そして「日本の軍隊機構ではしかたないのだ」と自分に言聞かせた。やがて彼らは、使役兵によって四本の柱に結わえつけられ、人間から「実的(生きた標的)」に変えられてしまった。

 そして、初年兵は四列縦隊にならばされ、上官から「前方にいる者はすべて敵だ。必ず突き殺せ」と命令のもと、先頭の四人に対して、まず、「出発!」の号令とともに半狂乱の新兵は短剣を構えて突進した。恐怖でゆがんだ顔に向かって突進するのだから、向かう新年兵も目をつぶる、よろめいて倒れる者もいる。敵を前にして立ち止まってしまう者がいる。「馬鹿野郎、敵だ、突くんだ!」という教官の罵声を浴びて、兵隊は我に返る。「お国のため!」と後は、やみくもに短剣をつき出す。 だが、その剣先は左右にそれて、なかなか胸に刺さらない。だから、捕虜はよけいな苦しみが続くことになる。「よし!」の許しが出るまで突かねばならない。そして、次の四人が出発する。事情はまったく同じ。

 この地獄の刺殺訓練が終わった後、中国大陸の夏の真っ赤な夕日が、中国人の死体と、初年兵である自分達の青ざめた顔を分けへだてなく照らす。

 この日の夜、中隊は初年兵のために祝宴を開いた。先輩兵たちは、「これでお前たちもやっと一人前の兵隊になれたなぁ。おめでとう!」と笑ったという。・・・・

                                 =前掲書より=

 はたしてこのような異常な状況が、なにげない日常に変わるという戦争。

 それが、戦争。戦争の持つ残忍性。僕は人間の素晴らしさも知っている。でも、人間が極限に追いやられた時の狂気性も知っているつもりだ。だから、どんなことをしても戦争に、近づく道は避けたいと僕は思う。なぜなら、自分自身も環境の中では理性を保ちえないかもしれないから・・・・学生時代から負けず嫌い。スポーツなどでは誰よりも好戦的な自分を誰よりも知っているから。

 狂気が「誰かの為に・・・」にと、正当化された時の恐ろしさ。チームのため、家族のため、平和のため、祖国のため・・・そして、戦争にはルールがない。

 「正義」の名のもとで、戦争は始まる。その時、人の中にある悪魔が目を覚ます。だから、イヤなのだ。人の中にある悪魔を呼び覚まさせてしまう戦争という環境が・・・・

 インディアンの長老達は七世代先のことを考えて、今の政治をするという。今はよくても、将来の息子や娘達はどうなのかと・・・・今の政治家で七世代の未来を願い、政(まつりごと)をしている人はいないと僕は思う。地球の環境問題しかり、自衛隊の派兵も同じ。終戦後、多くの日本人は、もう戦争のない社会を願って、戦争放棄の憲法に涙した。それから六十数年を経て、また日本は「世界が(ほぼアメリカ)言っている」と武力への正当性へ傾きつつある。

 憲法を変えたい人は、「あの憲法はGHQ(連合国軍総司令部)が作った」という。けれど、アメリカの法律家が自国で望めない夢を、極東の日本で夢を叶えようとして作った平和憲法。戦争のない社会を目指して・・・・アメリカ人だろうと、日本人だろうと、中国人だろうと人の願いは安心できる未来。

 アメリカは自分で憲法の草案を作ってしまったために、日本に対して動きがとれなくなった。だから、日本は朝鮮戦争も、ベトナム戦争も巻き込まれず、そのために世界の中で経済大国ニッポンになれたのです。

 また、戦争放棄をうたいながら、自衛隊は憲法的にアンバランスと言う。だから、「憲法の見直しだ」と・・・・でも、ゆがんでいるからこそ、日本はチョッとやソッとでは、戦争できない。つじつまが合うということは、すぐに戦争に突入するという危険性をはらんでいます。

 周囲とのバランスをとりながら、憲法の解釈をゆがませて、いびつに日本は戦争のない国で、こんなに永く平和で来れたのです。つじつまを合わせずにきたから、今日の平和があるのです。

 もともと、人間は矛盾しているのです。いびつなのです。だからこそ、瞬時に相手が憎いから殴る。嫌いだから離婚するとはならないのです。手間や、面倒な手続きが必要になる憲法の九条は、僕たち日本の安全システムなのです。とくに戦争への手続きは、複雑で面倒なほうがよいのです。

 それを、誰から見ても、どこの国から見てもシンプルにするのは危険です。なぜなら、人間の歴史を見ると、人間は危険な存在なのです。ライオンは自分が生きるための殺しは存在しても、意味のない殺しはしません。でも、僕達は肌の色や宗教が違う、自国の大儀のために、直接会ったこともない誰かを憎み殺すのです。僕達には自分の正しさの前には、人を殺すという殺人の血の歴史があるのです。

 歴史教育は議論になるが、どの国側の歴史を教えるよりも、人間は立場が変わると、殺しも、美化されるものだという人間の歴史を、次の世代に僕達は教えなければならない。人は環境や状況によっては狂気になる。

 歴史は、日本の側からの視点では、「西洋諸国列強からアジアを守るための戦い(聖戦)」であっても、他のアジアの国から見れば軍服を着て、自国に入り思いのままに振る舞えば、これは完全に侵略に映るのだということを教えることが、本当の人間の歴史教育だと思うのです。立場や国が違えば歴史はこんなに違うように映るんだと、それぞれの違う立場から見た歴史観を教科書に載せるべきなのです。そして、それを子供たちに真剣に考えさせる。それが、真の歴史教育。 自国の立場だけ載せる教科書は、人間の真なる歴史教科書ではないのです。

 教科書に、何を載せるか、載せないかはやはり自国優位教育で、戦争前夜の大日本帝国の教育も同じ過ちを犯しました。そして、自国の正当性で、あの戦争に突入したのです。

 先日、小学校の娘の運動会だった。砂場の横に立って彼女のリレーを見ていた。子供達のはじける歓声と笑顔。やはり平和はいい・・・・その時に、あることが脳裏に浮かんだ。

 戦争の時代。国民学校で砂場に座らされた子供達に、先生がバケツを持ってやってきた。バケツには掃除の時に使う“ぞうきん”が入っていたそうだ。その女の子はお母さんが、きれいな布で作ってくれたぞうきんが自慢だった。他の子はボロボロ。戦時中は物がないから当然といえば当然。彼女の自慢の母の愛情ぞうきん。

 先生は、砂の上にバケツを置いて、自分のぞうきんをそれぞれ手に持てと命じました。彼女は自慢のぞうきんだからうれしく、誇らしかった。いったい何が始まるのかと不思議に思い話し合っている子供達に先生は叫びました。「うるさい!だまって、ぞうきんを持て!」そして、子供達に「ぞうきんを丸めて胸に両手を当てて、砂場にめがけて走れ」そして「砂場に一歩とびこんだら体を伏せろ!」と言ったのです。それは、「自決」の訓練でした。子供たちの未来を育てる学校教育で、自決の教育!

 持たされ丸められたぞうきんは“手榴弾”を想定したものでした。「顔も頭も砂の中に埋めるようにしろ!」と先生はさらに叫ぶ。その子は、砂に顔を埋める埋め方が浅かったために、砂場の横で見ていた先生がかけよって来て、はだしの足で女の子の頭を二度も、三度も踏みつけたそうです。親にもそんなことされたことのない彼女は、悲しさと悔しさのあまり涙も出なかったそうです。

 お母さんの作ってくれた自慢のぞうきんで、子供たちに死の訓練とは・・・狂気が日常化されることが、戦争の姿なのです。

僕は願う。どの国の子供達も分けへだてなく幸せになる社会を・・・・そして、それを語れる真の大人でありたい。周囲の雰囲気で流されて、忘れてはいけない、自国の安全、自国の平和が、戦争への招待状だということを・・










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