正しさのワナ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■正しさのワナ
2007年7月20日





 正義を武器に持ち歩くと、多くの負傷者を出すものです。

 子供の頃から、何かをする時は、みんなでやり遂げたいと思っていた僕は、無関心な友人に嫌気がさしていた。なぜ、熱くなれないのかと、なぜ同じクラスの友達なのにと・・・・。

 あなたの正義と僕の正義は違う。また、あの国の正義とわが国の正義は違う。そのことに気づいたのは、ずーっと後になってからだった。今でも正義の病に侵されることがある。これは、なかなか治りにくい病だと思う。

 子供がガンを経験したことで、僕もアリゾナで、小児ガン撲滅のチャリティーマラソンに出場した。今でもカウンセリングでは、感情移入してしまう話は、子供の病気や、子供への虐待や事件に巻き込まれることだ。

 小児ガンの親の会もいろんな所にある。僕もよくそのような会から講演を依頼される。でも、スケジュール的に合わなかったり、もろもろのことで、お断りしなければならないこともある。その時には正義の手紙でお叱りを受ける。「同じ子供の親ならば、スケジュールを調整すべきだ」と。その同じ時間に、違う場所で、僕が多くの子供たちのためにと講演をしていたとしても・・・・・他人に正義のヤイバが向けられると、攻撃力は強くなる。それは「自分は正しいことをしているのに」と、自分側の正義にのみ心を奪われるからだと思う。

 僕は最近、持ち歩き用の箸を持参している。生徒さんからいただいたお箸だ。持参の理由は、森林伐採や、地球環境を考えた強い信念で、と言いたいところだが、僕は、エセ・エコロジストです。なぜなら、カバンに忍ばせている箸を忘れて、「いただきます」と言うやいなや、割り箸をパチンと割ってしまう。環境問題にしっかりと取り組んでいる人からすれば、許せないたぐいの話かもしれませんが・・・・・

 今年の夏至の日に、てんつくマンの呼びかけに協賛して、日本メンタルヘルス協会もキャンドルナイトに参加した。毎日恒例の食事会を開かず、カウンセリング講座の受講生に一週間前からキャンドルをプレゼントした。僕もその日は名古屋のホテルに宿泊だったので、なるべく電力は使わず(音楽は聴いたので、まったくではない)ホテルの部屋でゆっくり過ごした。

 僕は仲間に「やれる範囲でね」と呼びかけた。なぜなら、カウンセラーをやっていると、完璧を求める人は、不完全な自分に落ち込むことを知っているからだ。
 完璧な運動を求める人は、完璧な活動をしない人を責める。

 正しさで始まった仲間との運動も、仲間を攻め合い、途中で空中分解するケースが多い。自分の完璧を求める心が、他人に怒りをぶつけてしまう。「正義論」で来るから、責めている人も、責められる人も、互いに許したり、自分の意見を述べるという逃げ道がない。

 奥さんが正しさを武器にするため、ご主人が口を閉ざしてしまうケースも多いし、その逆に、正論でくるご主人に、忍耐している奥さんも少なくない。どちらも楽しくない。人間は理屈で動く動物ではなく、感じて動く動物だからです。

 ある講演会で、僕は幸せというのは、「白亜の豪邸に住むことでも、豪華な五つ星のレストランで毎日食事することでも、六本木ヒルズでオフィスを構えることでもなく、」本当の幸せとは、今の日常の生活に幸せを感じ、「陽が昇ることに、周囲や自分が健康なことに、今日も平和なことに、奥さんが作る何気ないお弁当に」幸せを感じることですよと、話をしたことがあります。

 数日後に届いた手紙に、女性解放運動家の方から、「衛藤さんは、“奥様がお弁当を作る”と安易に言われましたが、奥さん=お弁当。そのような考えが日本の女性達を解放できないのです。お見受けしたところ講演者としては、お若いので仕方がないのでしょうが、人生勉強が足らないように思われます。」

 僕はこれには、驚きました。僕の話は「幸せとは」であって、「女性のあり方」を語った訳ではないのです。もし僕が「奥さんが、お弁当を作るべきです。ご主人にお弁当を作らせる女性は最低です!」と語ったなら、この手紙の怒りは理解できるのですが・・・・。

 まるで、重箱の隅をつついたような非難だった。何かに怒っている人は、キッカケは何でもいい。怒りをある人に向けることが目的だから。不思議なのは怒っている人は、自分が正しいことを言っているという正義の側に立つので、自分が何に怒っているのかという、自分自身の感情には目を向けない。ただ、私は正しい、相手が間違っているという気持ちが感情全体を支配する。

 僕はあわてて「そんなつもりではない旨を伝えよう」と手紙を出そうとしたが、そんな人に限って、住所も氏名も無記なのです。まるで、言いたいことを伝えて、苛立ちを一方的に発散したかったとでも言うように、こちらの意見は一切聞かない。正義の権化になると問答無用になります。

 僕としては、頭を突然殴られて、走って逃げられたような心境でした。なにより、女性解放を語りながら、「お若い」からとか、「お年寄り」だからと、ジェネレーション・ハラスメントをしている自分自身のことには気づいていない。

 僕は、講演者が話す話は、一般論として聞いている。僕の子供は一歳の時に、小児ガンで大学病院に入院したが、一般に「こんな生活はガンになる」と言う類の話はどこにいても、よく聞く話しだ。

 テレビでも、講演会でも、「子供に、こんなジャンク・フードを食べさせると、子供はガンになります」とか、「親がこんな生活だと、子供はガンになります」と聞いても、それは、一般論として可能性があるということで、「そうなんだろうなぁ」と納得して聞いています。

 僕は「子供にはそんな物は食べさせていないし、僕たちは、そんな不摂生な生活はしてはいなかった」と怒りの手紙を書くこともありません。それは、僕に向けられた話ではなく、一般論としての話ですから。

 また、テレビ局に「すべてのガンがそういう訳ではないでしょう」とクレームを言う気にもならない。なぜなら、報道関係者も「そのお怒りは分かります。申し訳ありません。これは一般論としての話ですから・・・」とクレームを入れた人を肯定するしかない訳ですから。それ以上には何もない。

 もちろん、クレームを言う人が「私が正しい人だと認めてほしいの」「自分は立派な人だと認めさせたいの」と自覚しているのなら、話は変わります。なぜなら、人にはいろんな楽しみ方があるからです。問題なのは苛立ちの本当の意味を知らないで、他人を裁く正義の権化と化した、その人のパーソナリティです。

 一般にこのような人は、子供にも、恋人にも、部下にも正義をヨロイに容赦なく相手を責めます。そのため、大切な仲間から「また、はじまった」と嫌われているか、その人が怖いから多くの人々は従順に服従し、その中でお山の大将になることが多い。

 僕は思う。人は正義で責めあうと、誰もが、不完全な存在だから生きにくい人間社会になると。もちろん、情報を出す側の配慮と気遣いは必要なのです。ただ、一般論だと言う話もあるのです。

 テレビで「日本のお父さんは・・・」と言う場合。すべての日本のお父さんが“そう”だ、と言い切られるのは「過度の一般化」だとは思うけれど、僕は苛立ちはしない。なぜなら、それは一般論の話だろうからです。でも、自分だけに意識が敏感に向く人は、自分が否定された気になります。被害妄想も、このような心理状態の一種です。
 そのような人が、正義の武器を手にすると、勢い感情的になるのです。そして、テレビ局にクレームを入れる。

 日常的に穏やかな人は、怒ることと、受け流すことが、ハッキリしている。そして、いつも大らかに笑っているから、子供からも周囲からも嫌われはしない。

 自分の正義にのみ意識が向くと、「相手はそんな気持ちで言ったのではなかったのかもしれないなぁ」という余裕がなくなる。正義のために、国のために、愛のためにと大義名分を持つと「自分の正論」しか見えなくなる。だから、それぞれの正しさを信じるテロも戦争も終わらない。この怒りの連鎖を止める方法は、勝ち負けのゲームから降りるしかない。

 和歌山のカレー混入事件の容疑者の自宅の塀に、おびただしく罵詈雑言が書かれていた。「悪魔の住む家」「鬼畜!出てゆけ」などが所狭しと書かれていた。そこには、当時、なんの罪のない容疑者の子供が住んでいたことや、子供たちの心の傷などは想像もしない。

 松本サリン事件で、疑われた河野さんご夫妻の家に、「悪魔出て行け!」と石を投げたのは、正義の一般人です。後に、それがカルト化したオウム真理教だと分かると、反省も無く、新聞が悪いと、自分の見方の偏りを反省することもしない。中国の孔子も、このように良いとか悪いとかで人を決め付ける良識者や、一般的常識人の怖さを一番恐れた。中世の魔女裁判の魔女狩りで一般の人々が多く血祭りにあげられた。その恐怖も正義心から生まれた。

 正義を叫ぶ人によって、誰かの心が傷つけられてゆく。

 イラクで人質になった若者と家族に、罵声を浴びせたのも、マスコミに煽られ、国の正義を信じた人々です。そして、戦争を始める人々も、自国の正義の御旗に集まるのです。

 今、話題になっているモンスター・ペアレントと呼ばれ、学校に対して非常識なクレームを入れる親も、根っこのところではつながっています。「卒業アルバムにのっているうちの子供の写真が、他の子供より少なくて傷ついている。学校教育は平等であるべきでしょう。すぐにアルバムをつくり直せ!」「学校の呼び出しに応じたために、会社を休んだ。休業補償を請求します!」「学校で子供の携帯電話を取りあげられた、その携帯が使えない時間帯の電話代は、先生に支払ってほしい」などなど。

 こんな話を聞くと、耳を疑うが、自分は間違っていない、自分は子供を守るために戦っていると、信じて疑わないのです。

 近所の迷惑を考えないでゴミを収集する、ゴミ屋敷の問題。近所に対して嫌がらせをする変わり者は、毎日のようにテレビに出てくる。お騒がせの人々に共通するのは「自分は間違っていない!」と金切り声をあげるのだと警察の人は首をかしげていた。共通するのは自分だけの見方。自分だけの正義を疑わない人々です。

 今、世界に起こっている戦争の問題も自分を疑っていない。今の時代、大切なことは、自分の正しさを疑う時代なのかもしれません。

 仏さまのおでこにあるチャクラは第三の目とも呼ばれています。それは、自分を見つめる目だそうです。最後に必要になるのは、自分が正しいと思っている正義のよりどころを客観的に見つめ、自分を疑ってみることです。自分の正しさは絶対なのか?自分も知らないで人を傷つけることはないか?自分の間違いは許すけど、他人の間違いを許せないのは、人生を楽しんでいないからではないかと、自分に訊ねてみるのも良いでしょう。洞察の目を向けることが大切なのです。

 ただし、自分を疑い、自分を責めて、うつ病になっている人には必要ありませんが(重箱の隅の、読者のクレーム用のただし書き・・・・)

 人を責めたくなった時には、自分を客観的に冷静に見つめる心の目を持ちたいですね。

 ニーチェは世界が深いと言いました。心の世界は、単純に「正義」と「悪」という二元論ではなく、自分も他人においても、人は複雑なしがらみの中で生きているという優しい眼差しを持ちたいですね。

























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