目には見えない病に冒されている世界 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■目には見えない病に冒されている世界
2009年11月28日



 インフルエンザが猛威をふるっています。子どもたちの学校でも学級閉鎖が相次いでいます。各地域を移動する生活をしていると、新幹線や飛行機の閉じた空間では、ある種の緊張感がはしります。

 また、流行性感冒は病気だけではなく、生き方にも伝染病はあるのです。インフルエンザは、昔は「お染風(そめかぜ)」と言われたそうです。人の身体も心も染めてゆく、それが「流行(はやり)」なのです。

 閉じられた世界、いや狭い社会では、心の流行りも影響は多いようです。

 アフルエンザと言う言葉があります。アフルエンス「affluence(豊富、富裕)」からの造語です。もっと、もっとと多くの富を求めて、今の自分では満足が出来ずに、常に成功を善として、右肩上がりの経済成長がないと幸せと感じない病。

 この病の特徴は、成功を求めて、忙しさに追われ、日常にある、日向ぼっこや、健康や、人生の中にある普通の幸せをしっかり味わうことができません。そればかりか、自分を取り巻く人々も、成功のための道具でしかなくなってしまいます。だから、いまある人間関係が成功に役に立たないと思うと、カンシャクを起こし、相手をなじり、それまでの関係性をこわしてしまう。

 アフルエンザウイルスの人が恋人と付き合うと、相手にもステータスを求め、それがなくなると、見事なまでに別れる。なぜならば、恋人はブランド品と同じで、身につけることで、自分がどう映るかが重要なのです。
 だから、相手への関心はない。ただ、その人とつきあうことで、周囲からうらやましがられることが、恋人の絶対条件になる。

 アフルエンザの人が子どもを持つと、子どもの心には関心がなく、子どもがどの学校に入るか、どこに就職するか、誰と結婚するかが大切になる。当然、子どもの習い事や進路には人一倍教育熱心だけれども、子どもの疲れや孤独には恐ろしいほど無関心になる。
 その親の関心ごとは世間の目なのです。当然、子どもの能力の限界は認めないし、許せなくなる。

 アフルエンザの家族で育った、親思いの子どもほど、親の期待に応えることでくたびれてしまい、病気になるか、自分の心を麻痺させて親に服従した人生を歩むことになる。または、親から離れて家に寄り付かなくなることもある。

 この病は世代を越えて受け継がれ、さらに次の世代に向かうことになる。

 詩人のエフゲニーは
「人生の最大の目的は、誰もが成功して幸せになること。この教えこそが、わたし達が子どもの頃から頭にたたき込まれた、ガマンならないほど低俗で訳知り顔のおとぎ話だ」と・・・・言っている。

 自分の「成功」ばかり気にしている人は、虚栄心が強く、他人の失敗を喜びに感じてしまいます。
 人の幸せよりも「相手が不幸になることだけ」をひたすら祈るようになる。

 これでは、勝つか、負けるかの人生でしかなく、生きることを味わいつくすことなど不可能というものです。

 この病気は、医療分野にも蔓延し、医師が、死は敗北、延命こそが成功となると、身体にチューブをつなげて、そしてベッドに縛りつけ、薬の化学反応で命を生かすことが成功になる。

 当然、家族に見守られながら別れを惜しむ時も、家族は病室から追い出され、医者が馬乗りになって延命だけを求め、人工呼吸を繰り返し、家族が病室に入った時には、お年寄りは、ムリな心臓マッサージで、肋骨が数本折れただけで旅立つという・・・・不思議なことが起こってしまいます。

 アフルエンザはつねに、子どもをより有能な右肩上がりの生活に向かわせるために、親よりもさらによい学校へ、よい企業へと、子どもは追い立てられる。

 子育てで大切なことは、どんな苦境の中でも「楽しめる心」を養うことだということを忘れている。もし、「親よりもいい生活を!」のスローガンだけを信じて生きてきた子どもは、その求めていた生活に到達できなければ、人生は敗北と後悔だけに終わってしまう。その「負け組」と言われる普通の生活に中にも、穏やかな時間や、何気ない幸せが微笑んでいるのに・・・・・

 今、家庭はコーチング集団になり、家族の中で、心のふれあう時間より、アフルエンス(富裕)を目指すための強制収容所になり、当然、心が満たされない子供たちや、家族は崩壊してゆく・・・・・

 地獄でウロウロしている餓鬼を知っていますか。餓鬼とは、あの赤鬼、青鬼などの大鬼のそばで走り回っている子どものような鬼です。だから、子どもをガキと言うのです。

 この餓鬼は三種類いるそうです。一つは、無財我気です。これは財を持たない裸の餓鬼です。もう一つは、少財我気で、少し財がある餓鬼で、布を巻いてウロウロしています。もう一つは、多財我鬼です。これは地獄にはおらず、僕たち人間社会にいるそうです。食事をして、服も着て、平和な世の中に生きていても、「まだ足らない。まだ、満たされない。」とあくせく血眼になって、財を蓄えている餓鬼です。

 僕たちは、山海の珍味をたらふく食べて、使えきれないほどのお金を貯蓄していても不安がぬぐえない。そういう餓鬼(こころガキ)が日本にも、たくさんいますね。

 ユダヤ教のヘブライ語には、haveに相当する所有するという動詞がないそうです。 I have a pen. は、ヘブライ語では、「このペンは神から預かっている」と言うそうです。そうなれば、命も、地位も、子どもたちも、部下も、預かっているのだと言うのです。

 先日、ニューヨークタイムスで、歌手のマドンナが、若い時は、自分には才能があると思っていたが、今の年齢になって、子どもが出来て、現役で活躍できるのは、自分の能力は自分にあるのではなく、神から預かっていると思うようになった。だから、自分で引退は決められないと思うようになった。先日亡くなったマイケル・ジャクソンも、私と同じようなことを言っていたとマドンナは語る。

 さらに、彼女は自分に才能があると思って勘違いし、天狗になったアーチスト仲間は早々と落ちぶれて、消えていったと語った。その記事が、妙に僕の心に残った。

 英語に「God knows」という言葉があります。直訳すると「神のみぞ知りたもう」です。意訳すと、「わからない」となります。そう、将来はわからないし、出会いはわからないし、成功もわからない。ならば、出鱈目(デタラメ)です。これはサイコロ振って、出た目が人生の意味なのです。だから、やることはやったのちは、神さまにゲタを預けるしかない。「後は、神様よろしく!」と、天にすべてをゆだねるいさぎよさです。「人事をつくして天命を待つ」これを神様に下駄を預けるので、「カミゲタ方式」と言うのです。

 あくせくしても、しょうがない時はあります。「咲く時に時期があり、散る時に時期がある」と、禅では言います。

 レオ・バスカーリアの書いた絵本の「葉っぱのフレディ」は、自分が散りたくないと、悩みました。でも、地面に落ちた葉っぱのフレディは気づいたのです。なんだ、仲間のダニエルも、アルフレッドも、ベンも、クレアもみなここに居て、次の僕たちを育てるのだと・・・・命は終わることなく、大自然の設計図は、寸分の狂いもなく、新しい“いのち”を作っているのだと・・・・・

 次の葉っぱたちは、秋になり、一気に紅葉しました。新しいアルフレッドは濃い黄色に、新しいベンは明るい黄色に、新しいクレアは燃えるような赤に、新しいダニエルは深い紫に、そして、生まれ変わったフレディは赤と青と金色の三色の葉っぱへと・・・

 写真家の故星野道夫氏がアラスカの広大な大地で、人間の生きがいとは一体何だろう。たった一度のかけがえのない一生に、私たちが選ぶそれぞれの生きがいとは、なんと他愛のないものなのだろう。そして、なんと多様性に満ちたものかと写真集で書いていた。

 さらに、その本には、カリブーの骨を見ていると、ある種の平衡感覚を得ることができた。そして、何よりも骨は美しかった。今、目の前に横たわるカリブーの骨は、ゆっくりと大地に帰り、また、新たな旅が始まろうとしている。
 目に見えるあらゆるものは、地球という自然が再生している。かけがえのない者の死は、多くの場合、残されたものにあるパワーを与えてゆく・・・
 植物が大地から顔を出し、再び土に還ってゆくように・・・・・
 あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。
≪星野道夫写真集〜大いなる旅路〜≫より


 一度しかない人生、神に預けている人生なら、天に結果をまかせ、僕たちはまず生きてみよう。右肩に下がって落ちていても人生は楽しめるし、負け組の中にも、そこでしか味わえない人生もある。アフルエンザの病におかされないで、おおらかに負け組を楽しめる、本当に「大きな人間」になりたい。

 狭い人間関係は、アフルエンザに罹患する。だから、大きな視点に立つ練習が僕たちには必要です。そう、狭いとこに居ないで、大きな世界に来ないか!

 星野道夫は語る、「僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観を持ち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている」

 だから、狭いとこに生きていてはいけない。さぁ、広い世界へ・・・・心も体も飛び出そう。

     ※背景画像:星野道夫写真集より